歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(9)

[E:five] バース党の支配

[E:night]バース党の台頭
 1960年代以降のイラクとシリアでは、バース党という独自の政党が政権党として台頭してくる点で、イデオロギー的には共通の基盤を持つようになる。「アラブ社会主義復興党」を公式名称とするバース党は、その名称どおり、アラブ世界の復興を究極目的とする世俗社会主義政党であり、大きく言えば左派民族主義政党である。
 元来はシリアで結党された政党であり、シリア人の民族主義的思想家ザキ・アル‐アルスージーが独立前の1940年に結党した秘密結社アラブ・バース党を最初の細胞とする。さらにシリア独立直後の1947年、ともにシリア人思想家ミシェル・アフラクサラーフッディーン・アル‐ビータールらによって正式に結党された。
 アフラクとビータールはともに元共産主義者であったが、フランス植民地政策に協力的なシリアの共産党に幻滅・離反し、より民族主義的なイデオロギーに傾斜するようになったとされる。もっとも、最初にバース党細胞を結成したアルスージーは、現実の政治活動よりも思索や教育に関心があり、47年の正式結党には参加していない。
 一方、イラクでも1950年代のはじめにバース党イラク支部がフアード・アル‐リカービーらによって結党され、シリアのバース党本部と連携して活動を開始した。両国バース党の不思議さはいずれも知識人主体のマイナー政党として出発しながら、シリアでは63年、イラクでも68年には政権党にのし上がり、瞬く間に長期支配体制を確立したことである。
 その要因として、シリア、イラクともにバース党が軍の中堅将校の間で急速に支持者を得たことがある。両国ともにバース党政権はいずれも党員将校らの軍事クーデターによって成立したこと(特にシリア)が、その結果である。
 また党共同創設者の一人であるアフラクが、共産党と一線を画しながらも、移行期の暫定的政治制度としてソ連型の一党支配体制を提唱していたことから、政権掌握後の両国バース党が速やかにライバル政党の排除に乗り出したことは、長期支配の要因となった。
 他方、バース党は世俗的なアラブ民族主義という以外、イデオロギー的な軸が明瞭でないため、思想的に雑多な分子が結集しやすい反面、分裂・党内抗争も発生しやすい素地があった。特にアラブ連合への対処は歴史の浅い党を揺さぶる大問題となった。
 汎アラブ主義に基づくアラブ連合やナセルのアラブ社会主義は表面上バース党の理念とも矛盾しないように見えたが、アフラクはエジプト主導の汎アラブ主義には反対であった。一方、イラクバース党の創設者アル‐リカービーらはナセル支持の立場を打ち出し、党内抗争が起きたが、結局リカービーは61年に党を除名され、独自のナセル主義的運動を組織するに至った。
 しかし、アフラクも時の政権がアラブ連合結成に動くと、エジプトの要求に屈して独断で解党に出ようとした。これに対し軍将校を中心としたグループが党防衛のため党内分派的な軍事委員会を作って対抗し、深刻な対立に至った。
 この対立は尾を引き、最終的には66年にシリアで起きた党内クーデターを契機に党創設者のアフラクがシリアを追放される事態となる。一方、アフラクを支持するイラクバース党は独自にアフラクを奉じて、後に生涯にわたるアフラクの亡命を受け入れた。こうして、シリアとイラクバース党は分裂し、長い近親憎悪的敵対関係に陥ったのである。