歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(7)

[E:four] アラブ連合の時代

[E:night]アラブ連合の成立
 イラクとシリアが独立後の混乱に揺れる中、エジプトでは52年の共和革命で成立した社会主義体制がナセル大統領のカリスマ的指導の下、大規模な社会改革に着手していた。スエズ危機を乗り切った彼は汎アラブ主義の英雄として、アラブ世界の盟主となっていた。
 1958年2月、シリアとエジプトが統合して成立したアラブ連合共和国は、ナセルの絶頂期の象徴であった。とはいえ、国境を接していない両国の「連合」は唐突かつ奇妙であったが、これにはエジプト以上にシリア側に切実な事情があった。
 前回見たように、シリアでは、46年の独立以来、軍事クーデターが頻発し、短命政権が次々と交替する政情不安が収まらなかった。そうした中で伸張する共産党を抑えつつ、政情を安定させるにはエジプトとの統合が切り札とみなされるようになっていた。他方、急速な経済成長に伴い、経済界からは大規模なエジプト市場との統合を望む声も強まっていた。
 シリアで最強の政治勢力となっていた軍部内にも、エジプトのナセルを支持する汎アラブ主義の将校グループが形成されており、統合の機運がとみに高まった。こうして58年2月、国民投票を経て、正式にアラブ連合共和国が発足した。
 とはいえ、地理的にも離れた規模の異なる二国間の統合という試みは実験的ではあったが、見込みの薄いものであった。しかも、連合はナセルが当初構想していた連邦制ではなく、シリア側の要請により単一国家体制となったことから、必然的に「大国」エジプトの主導性が強まった。
 連合大統領にはナセルが座り、シリアにエジプトの軍人や官僚が送り込まれることになった。59年にはシリアの全政党が解散させられた。ナセルの中央集権政策がシリアにも適用され、当時は比較的分権的だったシリアの体制を変質しようとしていた。
 実態としてシリアがエジプトの「植民地」となりかねない兆候に対し、シリア人の不満は高まった。特に軍部内ではエジプト人将校への服従拒否が蔓延した。資本主義的志向が強かったシリア経済界にとっても、ナセルの社会主義政策、特に国有化政策は受け入れ難いものであった。
 そうした中、61年、当時抑圧されていたバース党所属の青年将校グループが主導するクーデターが成功した。ナセル主義者も含んでいたクーデター政権は当初、連合の枠内でエジプトとの関係を対等化する方向で交渉したが、不調に終わり、連合は解消に至った。
 しかし、その後もナセルはアラブ連合の試みを放棄せずアラブ連合共和国の名称を維持し続け、シリア側でも連合の復活を要求する汎アラブ主義者の抗議活動が続き、シリア国内の政情不安の元となった。