歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(6)

[E:three] 独立と混乱

[E:night]独立シリア共和国
 フランスの委任統治領とされていたシリアの独立は、難航した。独立交渉自体は1934年に始まったが、フランスは自国の国益を優先し、限定的な「独立」にとどめようと画策していた。これに対し、シリア側では後に大統領となるナショナリストのハーシム・アル‐アタッシーが指導する反対・抗議運動が盛り上がった。
 フランスに進歩派の左派人民戦線政府が成立すると独立交渉が進展を見せ、36年にはフランス‐シリア独立条約が締結されるが、ナチスドイツの成立がフランスに脅威となると再び情勢が変化し、結局、フランスは同条約を批准しなかった。こうしてシリアの独立は持ち越しとなり、英国から先行独立したイラクとは明暗を分けることとなった。
 その後も植民地政策に固執するフランスは45年にはダマスカスを爆撃、独立運動を弾圧するが、国際社会の圧力もあり、戦後の46年になって、ようやくシリアは独立を果たした。イラクと異なり、フランス流の共和国としての独立であったが、独立から間もなく始まる経済成長とは裏腹に、政治的には混乱が続いた。
 まず独立直後、少数派でフランス統治時代には固有の領邦を与えられていた宗教少数派アラウィー派自治を求めて蜂起した(同派は52年にも再蜂起)。これが鎮圧されても、49年には独立後早くも最初の軍事クーデターが発生し、クワトリ初代大統領が政権を追われた。
 この49年クーデターは早期に収拾され、独立運動の古参指導者であるアタッシーが大統領となるが、長続きせず、51年には再び軍事クーデターに見舞われ、今度はクルド系のアディブ・シシャクリ大佐―彼は過去二度のクーデターいずれにも関わっていた―が政権に就く。
 傀儡大統領を擁立した軍事政権を経て、53年の形式的な選挙で大統領に就いたシシャクリは既成政党を禁止する一方で、社会主義に傾斜した比較的進歩的な官製政党を結成して独裁統治した。
 外交的には親英米の立場を採り、西側との良好な関係を保つとともに、汎アラブ主義・反イスラエルの立場をとった。一方、隣国のハーシム家イラク王国に対しては敵対的で、イラクとの連合を志向したアタッシーらとは鋭く対立した。
 だが、シシャクリ政権も長続きはせず、54年にはもう一つの宗教少数派ドゥルーズ派の反乱に続き、シシャクリ政権下で抑圧されていた共産党バース党など左派系政党が関与するクーデターが起き、混乱が広がる中、シシャクリは辞任・亡命に追い込まれた。この後、58年にエジプトとの国家合同(アラブ連合共和国)が成るまで、アタッシーとクワトリの短命な復帰政権が順次続く政治循環に陥った。
 このように、独立シリア共和国では軍部の政治性が独立当初から強く、クーデターが頻発する一方で、自立志向の強い宗教少数派の反乱も絡み、政情不安が際立っていたのである。