歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(5)

スンナ[E:three] 独立と混乱

[E:night]独立イラク王国
 英国がハーシム家のファイサル(1世)を擁立して1921年に樹立したイラク王国は英国の保護国としてその間接支配下に置かれたが、30年に更新された新たな英国‐イラク条約で独立が取り決められ、32年、イラク王国は正式に独立した。
 とはいえ、英国は引き続き軍事基地を維持し、石油支配権を保持したため、独立は法形式上のものにすぎず、イラクを事実上の属国として操る体制に変わりなかった。
 親英的なファイサル1世は独立の翌年に急死し、長男のガージー1世が後継者となった。彼は父王とは異なり、強固なアラブ民族主義の立場を採り、反英的な姿勢を露わにしていた。宗派的にはイラクで劣勢なスンナ派の立場を鮮明にしたため、優勢なシーア派の反発と反乱を招いた。
 そうした政治的空気の下、36年には民族主義者バクル・シドキ将軍が近代アラブ世界初の軍事クーデターで実権を掌握した。ガージーはクーデターを追認したが、シドキは翌年暗殺され、ガージー自身も39年に自動車事故で急死する。この事故には不審な点もあり、親英派勢力の謀略説も取り沙汰された。
 代わって王位に就いたのは、ガージーの息子ファイサル2世であった。彼は58年の共和革命で殺害されるまで19年間にわたって在位したため、結果的にイラク王国では最も在位期間の長い王となった。
 しかし、わずか3歳で即位したファイサル2世は叔父で摂政のアブドゥル・イラーフに実権を握られ、成人してからも政治的には無関心・無気力で、国政上の影響力はなかった。不運なことに、この弱体な王の時代、イラクは国際情勢の大きな激動に飲み込まれることになる。
 まずは第二次世界大戦をめぐり、政権内部でなおも続く親英派と民族派の対立が、民族派の枢軸国接近という形で現れ、41年には親枢軸派のクーデターが成功する。しかし、英国はこれを容赦せず、軍事介入し、アングロ‐イラク戦争の末、再び英国が戦後の47年までイラクを占領した。
 戦後のイスラエル建国に際して、イラク王国アラブ連盟の側で第一次中東戦争に参加するが、アラブの盟主格を目指すイラクの姿勢は他のアラブ諸国との軋轢を生み、連盟内で主導権を取ることに失敗、アラブ連盟は敗戦する。 
 一方、東西冷戦が本格化する中、43年以降王太子に就任していたアブドゥル・イラーフらを中心とする王国主流派は親英米・反共を旗印とし、55年にはバグダードに本部を置く反共中東同盟・中央条約機構を結成した。
 しかし、52年のエジプト共和革命は改めて軍内民族派に刺激を与え、共産党民族主義左派バース党も浸透する中、ハーシム家イラク王国の終焉は一気に近づいていた。