歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第12回)

十一 近世東北の収斂

 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、江戸時代に入ると、改めて幕府主導での東北再編が行なわれる。まず豊臣政権では冷遇され、減移封処分を受けて押さえ込まれていた伊達氏(政宗)は、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、徳川家康の評価を得た。
 しかし1600年、秀吉の奥州処分で没落した武将が起こした岩崎一揆を背後から扇動した疑いが持たれ、結局幕府から安堵された所領は絶頂期の旧領には届かなかったが、それでも全国有数の60万石余りの国持外様大名として遇され、仙台を新たな居城とした。
 政宗を国際的にも有名にしたのは、何と言っても慶長遣欧使節団の派遣であった。この遣使の真の目的については諸説あり、スペインと結んで倒幕を図る底意があったという陰謀説まで存在するが、家康の許可を得ての遣使であり、倒幕はいささか飛躍であろう。ただ、誇り高い野心家であった政宗としては、幕府とは別途、藩独自に外国と外交通商関係を結ぶ考えがあったとしてもおかしくはない。
 しかし、次第に幕府が鎖国政策に傾斜していくにつれ、こうした独自外交も制約されていった。結局、彼の子孫たちは幕府に忠誠を尽くし、仙台藩は以後、伊達氏で固定され、明治維新まで存続する。
 他方、陸奥の強豪南部氏も関ヶ原の戦いでは東軍に付き、岩崎一揆の鎮圧でも功績を上げた。南部氏は分家が多いが、三戸に根拠を置く三戸南部氏が盛岡藩を安堵され、これも明治維新まで存続した。また北端の弘前は南部氏から離反・自立した津軽氏が幕末まで治めた。
 会津は秀吉の信任の厚かった上杉景勝の所領となっていたが、景勝は家康の会津征伐の対象となった末、関ヶ原の戦いで家康に降伏した。最終的には謝罪・赦免が認められ、山形の米沢へ減移封された。以後、米沢藩も上杉氏で幕末まで固定される。
 入れ替わりで会津は蒲生氏や加藤氏の短い入部を経て、2代将軍秀忠の庶子保科正之を藩祖とする「御家門」である会津松平家の所領となり、幕末まで固定される。
 日本海側では、上述のとおり、米沢に上杉氏が入部する一方で、山形は戦国時代から本拠を置いた最上氏が会津征伐で功績を上げ、いったんは伊達氏に次ぐ大大名の山形藩主として安堵されたが、間もなく熾烈なお家騒動(最上騒動)が武家諸法度違反に問われ、近江大森藩に減移封処分となった。
 その後の山形藩は異動の激しい藩となり、藩主家は固定されなかった。また最上氏改易に伴い、庄内地方には徳川家直参の酒井氏が入部し、譜代藩の庄内藩を立て、幕末まで存続した。
 他方、秋田を本拠としていた秋田氏(旧安東氏)は関ヶ原の戦いでは東軍に付いたが、秋田氏が西軍と通じているという最上氏の讒言をある程度は考慮したらしい家康の命令でいったん常陸宍戸藩に移封された後、福島の狭隘な三春藩に移され、地縁のないこの地で幕末を迎える。代わって秋田には、関ヶ原では中立の立場をとった常陸の強豪佐竹氏が入部し、久保田藩として幕末まで存続する。
 こうして17世紀半ば頃までには、大藩の外様伊達氏を南の御家門会津松平氏と西の譜代酒井氏が囲むような布置で東北地方の主要な領主が定まり、東北も幕藩体制の中に収斂していく。東北地方の主要領主が固定されたのは幕府が歴史的に抵抗・反乱の多かった東北地方の支配の安定に相当神経を使っていたことを示唆するものと言えよう。