歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第10回)

九 中世東北の再編

 蝦夷代官職として鎌倉時代に台頭し、津軽を拠点に土着した安藤氏は幕府滅亡後も南北朝動乱期を生き延びていくが、この頃から本来の拠点にある津軽にとどまった家系(下国家)と、日本海側秋田に移住した家系(上国家)とに分岐する。
 この分立がどのような経緯で生じたのか詳細は不明であるが、大きなお家騒動は記録されていないため、政策的な分家であった可能性が高い。この点、鎌倉時代中期に男鹿半島に北条氏所領が拡大されたことに伴い、蝦夷代官安藤氏の管轄区域がこの地にも及ぶようになり、日本海側の統治を担う分家が生じたとも考えられる。
 いずれにせよ、下国・上国両家は戦国期に統合されるまで、大きな内紛もなく平和的な分立体制を維持していくが、室町幕府発足後も、半自立的な勢力として繁栄したのは、下国家のほうであった。十三湊は港湾都市として整備され、北海道の渡党やエゾと呼ばれるようになった北海道先住民との交易の中心地として栄えた。遺跡出土品からは中国・朝鮮との貿易の形跡もある。
 考古学的な調査によると、十三湊は14世紀中頃から15世紀前半頃にかけて最盛期を迎え、以降衰退するとされることから、下国安藤氏の全盛期もその時期とみなされる。全盛期の安藤氏は自ら蝦夷の末裔を称した安倍氏とは異なり、もはや俘囚の長ならず、「奥州十三湊日之本将軍」を名乗った。
 下国安藤氏が15世紀前半に衰退した最大の理由は、青森の三戸を本拠とする南部氏が北に勢力を伸ばし、安藤氏を圧迫するようになったことである。南部氏は系譜不詳の安藤氏とは異なり、甲斐源氏出身の南部光行を家祖とし、明確に源氏系譜をたどれる名門であり、奥州藤原氏を打倒した奥州合戦での功績から奥州に所領を与えられた光行の子孫が土着して形成された。
 南部氏に追われた安藤氏は、かねてより交易を通じて勢力圏としていた道南にいったん逃れた後も、津軽奪還を試みるが、1453年に時の当主・安藤義季が南部軍に敗れ戦死して、下国家直系は断絶する。
 その後は義季の又従兄弟に当たる政季が継ぐ。彼は1456年、上国家の招きを受け、秋田の檜山に移住するに際し、道南の渡党を糾合し、三人の守護職を置いた。そして、檜山を拠点に下国家を再興した(檜山安東氏)。この家門再興に前後して、安藤氏は安東氏に改字したと見られる。檜山安東氏は次第に比内・阿仁地方まで勢力を広げ、出羽北部から道南を支配領域とする豪族に成長する。
 一方、下国家を救済した上国家は湊安東氏として京都扶持衆に名を連ね、自立気風の強い檜山安東氏とは異なり、室町幕府と密接な関わりを持っていたが、その事績はあまり明らかでない。
 こうして、出羽は檜山安東氏と湊安東氏として再編された安東二家が並立する体制となり、一方、津軽・青森地方では安藤氏を駆逐した前出の南部氏が強盛化し、次第に自立的な戦国大名に成長していく。