歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第21回)

二十三 徳川家茂(1846年‐1866年)

 先代13代家定は病弱で実子もなかったため、存命中から後継者をめぐり派閥抗争が勃発していた。それは家定まで三代続けて将軍を出した一橋家の徳川慶喜を推す慶喜実父の水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派と、紀州藩主・徳川家茂〔いえもち〕を推す大老井伊直弼南紀派の間で争われた。この争いの背後には、開国派の南紀派に対して、攘夷派主体の一橋派という外交政策をめぐる対立があった。
 両派は共に紀州系という大枠では同門であったが、封建的な血統論から先代の従弟に当たる家茂を強く推した南紀派が勝利し、家茂が家定の養子となる形で、後継に決定した。この際、井伊主導で一橋派を弾圧する安政の大獄を起こしたことは、後に井伊自身も命を落とす禍根となった。
 こうして一橋家の支配はひとまず終焉して、再び吉宗以来の紀州藩本家筋に原点回帰する形となったが、家茂はこの時まだ12歳の少年であり、開国直後の難局に当たるには幼すぎたため、政治の実権は桜田門外の変で井伊が暗殺されるまでは井伊に握られ、その後は将軍後見職に就いた一橋慶喜に握られた。
 その慶喜実権体制の下で、幕府延命の切り札として実現されたのが、公武合体という壮大な政略婚であった。家茂の正室として、家茂と同年の和宮親子〔ちかこ〕内親王が招聘された。この婚姻は封建的身分秩序からすれば、皇族出身の妻が格上の「逆玉婚」であり、家茂も和宮に対しては低姿勢で何かと気を使ったため、彼は将軍というより「和宮の夫」のような立場となっていた。
 このように家茂は公私にわたり制約された立場を強いられたが、本人はそうした自身の限定的な役割をよく心得ていたようで、成人しても増長することはなかった。しかし慶応元年(1865年)、朝廷の攘夷方針に反して兵庫開港を強行した時の老中・阿部正外〔まさと〕と松前崇広〔たかひろ〕が朝廷から処罰されると、時の孝明天皇に将軍辞職の意向を突きつけて、以後幕府人事への朝廷の不干渉を約束させるなど気骨も示した。
 しかし彼も先代同様病弱だったと見え、実子は生まれず、慶応二年(1866年)、第二次長州征伐に親征の途上、大坂城で急逝した。20歳であった。
 結局、家茂は政略で年少にして将軍となり、皇族との政略婚を強いられ、その生涯を政略によって左右された。彼が長生していればどうなったかわからないが、幕藩体制の存亡がかかった危機の指導者としては先代家定同様、弱体であった。

二十四 和宮親子(1846年‐1877年)

 和宮親子は、明治天皇の祖父に当たる仁孝天皇の第八皇女であったが、上述のように公武合体政略の結果、本人の意思に反して将軍家に降嫁する運命となった。
 封建身分秩序のもとでは、属する身分によって生活様式も全く異なったことから、皇室側は和宮降嫁に当たり、御所の生活流儀を維持するよう幕府に申し入れていたが、遵守されず、和宮は慣れない武家の生活や大奥での人間関係、特に先代家定の継室で義理の姑に当たる天璋院の嫌がらせに苦しんだようである。それでも、夫の将軍家茂は和宮に気を使い、丁重に扱ったことで、夫婦仲は良好であったとされることが救いであった。
 しかしその家茂とも3年ほどで死別し、和宮江戸城に取り残されることになる。しかし、彼女はむしろ家茂の死後、政治的にも重要な役割を果たすようになる。まず、またも持ち上がった将軍後継問題に関して、家茂が死の間際に遺言した田安家の亀之助後継を幼少を理由に退け、幕閣の多くが推していた一橋慶喜後継を支持して実現させた。
 その後も、和宮は江戸にとどまり、大政奉還から戊辰戦争江戸城無血開城に至る動乱の中、幕府と朝廷の仲介者として平和的な役割を果たしている。特に王政復古後は将軍不在となる中、事実上徳川家の代表者として、かつて嫌がらせを受けた天璋院とも協力しながら、慶喜助命や徳川家の存続のために奔走するなど、仲介的な役割を果たしたのであった。
 彼女は明治維新後、一度帰京を果たしたが、間もなく新都・東京に戻り、徳川一門の大御所的存在として余生を送っていたところ、持病の脚気が悪化し、明治十年(1877年)に31歳で没した。
 彼女も亡夫・家茂同様、生涯を幕末の政略に左右されたが、そういう運命に耐えて、動乱の時期に皇族出身の将軍正室という前例のない役割を果たすべく努力した。
 政治的には朝廷の方針に従い一貫して攘夷派であったが、明治維新の体制移行に伴う流血が必要以上に拡大しなかったことには、和宮の果たした平和的仲介者としての貢献もあったと考えられる。