歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第7回)

六 新東北人の形成と抵抗(上)

 9世紀後半期の俘囚反乱が収束すると、一世紀以上、東北地方では平穏が保たれる。この間、平安朝による民族浄化政策の結果として入植和人と俘囚エミシの通婚・混血が進み、新しい東北人が形成されていった。こうした「新東北人」は部分的にはエミシの血を引きながらも、すでに文化的にも形質的にも和人化されていたと考えられる。
 平安朝末期、藤原氏が支配する朝廷の権勢が陰り、武士階級が台頭してくると、新東北人の中からも、奥州安倍氏出羽清原氏という二つの有力な武家が現れる。この二代家系は、東北の太平洋側と日本海側という旧東北エミシの二大拠点に対応して台頭している。
 両家はともに安倍氏清原氏という中央貴族と同姓を名乗っていながらしばしば俘囚の頭目を称したことから、俘囚エミシの末裔とみなす見解もあるが、実際のところは、上述したような新東北人の有力武門―もしくは中間的な軍事貴族―と見るべきものであろう。
 中央貴族の氏族名を名乗ったのは権威づけのための仮冒とみる余地もあるが、奥州では9世紀後半、阿部比羅夫の末裔でもある安倍比高〔なみたか〕が陸奥守・鎮守府将軍を務めたことがあり、彼が現地で残した庶流が在地豪族化して安倍氏を名乗るようになったとも推察でき、傍系とはいえ中央貴族安倍氏の流れであった可能性も十分認められる。
 出羽清原氏についてはかねてより中央貴族で歌人でもあった清原深養父〔ふかやぶ〕の子孫とする系図も残されており、清原氏系とする説が有力であった。ただ、同じ清原氏系でも878年に秋田で起きた俘囚反乱・元慶〔がんぎょう〕の乱の際に鎮圧に当たり、乱後は秋田城司として俘囚の管理を担った清原令望〔よしもち〕を祖とするという説のほうが、確証はないもののより真実味がある。
 いずれにせよ、安倍・清原両氏は朝廷の権勢が陰り始めた11世紀半ばに半独立状態の豪族として台頭してくる。そうした半独立の権勢を示す狙いから、後に両家を継承した奥州藤原氏がそうしたように、あえて自ら俘囚長とか俘囚主を称した可能性はあろう。
 特に安倍氏は記録上安倍頼良(頼時)の代で急速に勢力を拡大し、奥六郡を中心に、今日の青森県東部から宮城県南部にまたがる広大な領域を支配下に収めた。ついには、朝廷への貢租を懈怠するまでになり、朝廷から敵視された。
 1051年から10年以上にわたって続いた内戦―いわゆる前九年の役―は、こうした安倍氏と朝廷との衝突の結果であった。安倍氏鎮守府将軍として派遣された源氏二代目棟梁・源頼義と当初良好な関係を築いたが、東北地方で地盤を築くべく陸奥守再任を企てた頼義の挑発に乗る形で戦争に突入した。
 戦死した頼時を継いだ息子の貞任〔さだとう〕を相手に頼義は当初苦戦したが、出羽清原氏の援軍を頼んでようやく安倍氏を滅ぼした。こうして安倍氏の権勢は事実上二代で終わった。代わって、軍功のあった清原氏が奥六郡の旧安倍氏所領も併合して東北最大の在地豪族となり、源平両氏と縁戚関係を結びつつ、後三年の役で滅ぼされるまで権勢を張ることになる。
 ちなみに、この時代に至っても津軽半島下北半島など東北最北地にはエミシ残党―少なくともそれを自称する勢力―が残っていたらしく、1070年には桓武天皇を意識する時の後三条天皇の征夷完遂政策の一環として、清原氏の軍勢を主力とする朝廷軍が遠征を行っている。
 一方、安倍宗家は滅んだが、頼時の三男・宗任〔むねとう〕は伊予、次いで筑前(大島)に流罪となり、さらにその子孫から九州の海賊・松浦党を構成する武士団が派生している。その一派のうち平氏側について治承・寿永の乱で現在の山口県長門流罪となり、現地に土着した一族の末裔が第90代及び96代内閣総理大臣安倍晋三とされる。