歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第17回)

十八 徳川家治(1737年‐1786年)

 徳川家治は父の9代将軍家重が重度の障碍者であったのとは対照的に、幼少時から聡明とうたわれ、祖父の8代将軍吉宗の期待が高かった。吉宗が家重後継に固執したのは、孫の家治への期待からという説もあるほど祖父の寵愛を受けた。
 しかし、将軍就任後の家治は祖父の期待を裏切り、国政を幕閣に委ね、自らは趣味道楽の世界に没頭するようになった。それでも父家重の遺言に従い、怜悧な田沼意次側用人、次いで老中に起用して長く重用したため、国政に支障が出ることはなかった。
 こうした家治の政治姿勢のゆえに、田沼は存分に采配を振るうことができ、家治時代は田沼時代とほぼイコールであった。その田沼は、江戸開府から150年以上を過ぎた時期にあって、時代の転換点をその鋭い政治的嗅覚で感じ取っていた。すなわち、従来の自足型重農主義収奪政策の行き詰まりである。
 そこで、田沼は幕府の経済政策を重商主義的な殖産興業の方向へ誘導していく。その具体化が株仲間の奨励や専売制の導入である。また鎖国の核心である貿易統制を緩和して、長崎貿易の拡大を促した。さらに蝦夷地の経済開発も進め、実現はしなかったもののロシア貿易をも構想していた。思想面でも吉宗時代からの蘭学をいっそう奨励し、西洋文明の摂取にも積極的であった。
 このように田沼時代は、幕末期を除けば江戸時代を通じて最も革新的な時期であり、その政策は「改革」と呼ぶにふさわしいものであったが、基本的に重農主義思想統制を軸とした保守的な幕藩体制にあっては異端的な性格が強かったため、保守派からの風当たりも強かった。
 後世、田沼が政治腐敗の象徴のようにみなされたのも、現物経済の限界を認識していた田沼が、貨幣経済の拡大を企図して、商人資本の成長を促進する中で、カネ万能主義的な風潮が広まり、おそらく自らも不正蓄財をしていたことが、反田沼派による田沼追放後の「脱田沼化」プロパガンダとして宣伝されたことに由来するものであろう。
 そういう田沼を家治は辛抱強く起用し続けたが、将軍世子の家基は田沼の政治に批判的な言動をしていた。家基は父と同様、幼少時から聡明をもって知られ、次期将軍の座はほぼ確実であったが、安永八年(1779年)に16歳で急死する。それは鷹狩りの帰りに立ち寄った寺で突然体調不良を訴え、三日後には死亡するという不審なもので、毒殺説も根強い。その言動からして、家基が将来将軍に就けば田沼が追放される公算は高く、田沼本人ではないとしても、親田沼派が家基排除を狙っても不思議はない情勢であった。
 家基の急死から五年後の天明四年(1784年)、今度は田沼と父子二人三脚で政策を遂行してきた若年寄の息子意知が江戸城中で旗本佐野政言〔まさこと〕に突然斬りつけられたことがもとで死亡する事件が起きる。この事件は政言の「乱心」として処理されたが、真相は解明されておらず、家基急死と合わせ、家治晩年期の政治には暗部が多い。
 家治は、安永八年、世子の家基に続いて田沼と並ぶ側近の老中首座・松平武元〔たけちか〕をも失った頃からますます無気力となり、7年後、自らも死去した。
 一方、田沼も息子意知暗殺の後、権勢が衰え始め、家治死去の直後に老中を罷免されたうえ、蟄居、財産没収などの厳罰を科せられた。こうした迅速な田沼排除のプロセスを見ると、家治の死に前後してすでに田沼派は失墜していたものと見られる。以後、松平定信ら反田沼派の反動「改革」が始動していく。