歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第6回)

五 民族浄化と俘囚の反乱

 坂上田村麻呂が率いた平安朝によるエミシ掃討作戦が終了し、障害要因が除去されると、朝廷は東北入植政策を本格化させる。それは、強制移住と同化という二つの手段を通じて行われた。
 強制移住は和人の代替的入植と引き換えに、エミシを集団で全国に強制的に移配する策であり、東北を和人化するうえでの中心政策であった。移配先でも、騎乗・騎射にすぐれた勇猛な俘囚エミシは朝廷にとって兵士の給源であり、国衙軍制の中で臨時徴兵員として徴用された。また柄頭が蕨の若芽様の渦巻き状であることから蕨手刀と呼ばれたエミシ特産の刀は、やがて興隆する武士が使用する日本刀の原型となったとされ、武具史上も俘囚エミシは和人に影響を及ぼしている。
 とはいえ、移配先は遠く九州を含むエミシ社会とは生活習慣も言葉も違う未知の土地であった。移配俘囚は一般公民と区別され、租税は免除、自立できるまで現地国衙から糧食を供給させる生活保護政策が採られたが、元来狩猟民であるエミシが縁もゆかりもない土地で定住農民として自立するのは難しく、生活保護からの脱却は無理であった。生活環境の違いから健康を害し、命を落とすエミシも跡を絶たなかったと見られる。
 こうした中で、移配俘囚らが待遇改善を求めて武装蜂起する俘囚反乱が全国各地で相次ぐようになった。特に883年に上総で起きた俘囚反乱は大規模で、朝廷は自力で対処し切れず、上総国司に追捕権を付与せざるを得なかった。かくして強制移住政策は治安上も合理的ではなくなってきたことから、朝廷は897年以降、移配俘囚を奥羽へ送還する政策転換に踏み切る。
 一方、一部の従順なエミシは移配されず、奥羽の原住地で俘囚化されたが、やはり俘囚は租庸調を免除され、国衙から糧食提供を受けた。それでも上総俘囚反乱と同じ元慶年間の878年には、出羽国俘囚による大規模な反乱が起きている。
 とはいえ、東北の族長級有力俘囚エミシは和人との交易で財を築き、血統的にも人口上多数派となりつつあった入植和人との通婚により混血が進んだ。皮肉にも原住俘囚のほうが移配俘囚より同化が進み、エミシとしての民族性を次第に喪失していったのであった。
 こうした強制移住と同化という民族浄化政策は、遠く19世紀にアメリカ合衆国が先住インディアン諸部族に対して実行した民族浄化政策と驚くほどよく似ている。エミシ俘囚化政策は、日本の平安朝がアメリカ政府より千年先駆けて行った民族浄化政策の先例であった。