歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第15回)

十五 徳川家重(1712年‐1761年)

 徳川家重は、先代8代将軍吉宗の長男として生まれたが、おそらくは小児麻痺による障碍のために言語が不明瞭であった。そのため、健常者だった弟の宗武を後継に推す声が強く、後継者問題が発生した。この問題は長期政権を保持した吉宗の強い意向を背景に、結局既定路線どおり家重後継で決着を見たが、後々まで微妙な尾を引いた。
 こうして、家重は先天性障碍を持つおそらく日本史上唯一の為政者となった。障碍者の社会参加が叫ばれる現代ですら実現していないことが、障碍に対する迷信的な偏見の強かった封建時代に実現したことは、ある意味で奇跡であった。これは能力より長幼の序を優先する吉宗の教条的な封建思想によるものと見ることもできるが、当時の記録によると、家重の障碍は専ら構音にあり、知能に関しては問題がなかったと見られることから、側近の補佐を受ければ将軍職は十分こなせるという吉宗の判断もあったかもしれない。
 幸いにも、吉宗は比較的長命で、最初の6年は譲位した吉宗が大御所として実権を保持し、基礎固めをした。吉宗没後は、家重の幼少時から仕え、その不明瞭な言葉を唯一解することができたとされる大岡忠光紀州藩系の田沼意次といった旗本身分の側近者を大名に取り立てて補佐させることで、比較的平穏な政権運営が可能となった。
 政策的には父の享保の改革の継承が既定路線であり、勘定吟味役の陣容を拡充し、会計検査体制を整備するなど、財政規律の維持が引き続き図られた。一方では豊作を背景に、酒造統制を緩和する経済自由化にも踏み込んだ。
 しかし、吉宗「改革」の負の遺産として家重時代には百姓一揆が頻発し、治安面での後退が見られた。その最も大規模なものとして、金森氏が藩主を務める美濃の郡上〔ぐじょう〕藩で宝暦年間に起きた郡上一揆がある。この一件は、直接には藩の苛烈な増税策が引き起こした一揆であったが、享保の改革の目玉であった増税は地方藩にも波及していたのであった。
 このような地方一揆に中央の幕府が司法介入することは通常ないが、この時は一揆が大規模化し、革命的な様相を呈したうえ、一揆側による目安箱への提訴という事態に発展したため、幕府が審理に乗り出すことになったのだった。
 その際、家重が幕府高官の郡上藩悪政への関与を疑い、正式捜査を命じたことから、事は拡大し、田沼意次が主導する評定所による捜査・審理の結果、老中を含む幕閣の関与が認定され、大量処分された。同時に一揆勢も処断されるとともに、郡上藩主金森家は改易となった。
 この一揆は、こうした幕府高官の大量処分にも及ぶ家重治下で最大の事件となったのだが、これは田沼が家重を巻き込んで幕府中枢に仕掛けた粛清と読む余地もある。実際、この事件で大活躍した田沼は、連座する形で改易された遠江国相良藩主本多氏に代わって相良藩主におさまり、以後幕府最有力者への道を歩む。
 また家重時代は、イデオロギー的な面でも、時の桃園天皇尊王論を進講させた公家グループを関白の告発に基づき京都所司代を通じて審理・処断した宝暦事件のように、再び武断主義への揺り戻しのような傾向を示した。
 こうした厳正な政権運営を見ると、家重は一般に流布されてきたような暗愚のイメージとは裏腹に、側近者を通じて自ら指揮を執る一面も認められ、たしかに知能面では問題がなかったことが窺えるのである。
 家重は通訳代わりの大岡忠光が没すると、自らも隠居して息子の家治に譲位し、大御所となって間もなく没した。家治への遺言は田沼の継続起用であった。ここから毀誉褒貶著しい「田沼時代」が本格的に始まる。