歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第5回)

四 征服と抵抗(下)

 多賀城築城の後、しばらくは朝廷軍とエミシ勢力の大規模な衝突は記録されていないが、朝廷による入植政策とそれに対するエミシの抵抗戦はなお断続的に続いていたものと見られる。 
 そうした中、780年に転機となる大規模なエミシの蜂起が再発した。これは陸奥国伊治呰麻呂〔これはりのあざまろ〕というエミシの軍事指導者が中心になって起こした事件であった。呰麻呂は当時、朝廷の官位を持ち、伊治郡(後の栗原郡)の大領の地位にある人物であった。彼は俘囚(夷俘)だったとされるが、この時代にはまだ帰順したエミシを俘囚として再編する政策は本格化しておらず、おそらく彼は自発的に朝廷に帰順し、官位と地方官の地位を保障されたエミシであったと考えられる。
 呰麻呂は朝廷の先兵として、自ら出羽国におけるエミシ征服作戦を買って出て成果を上げ、朝廷からも報賞として官位を授与されたのだった。そんな彼が突然蜂起したのは、当時牡鹿〔おしか〕郡大領だった道嶋大盾がエミシ出自の呰麻呂を蔑視する態度を隠さなかったことへの個人的な恨みからであったとされる。
 彼は、根拠地の伊治城を陸奥国按察使・紀広純が訪問した時をとらえ、配下のエミシを率いて蜂起し、大盾を殺害、続いて呰麻呂に信頼を寄せていたとされる広純まで殺害した。呰麻呂はさらに軍を進めて、ついに多賀城を落とし、城は焼失した(後に再建)。
 東北経営の拠点であった多賀城を落とされたことで、この件はただの反乱では済まなくなった。養老蜂起以来60年ぶりの按察使暗殺に直面した朝廷は直ちに鎮圧軍を派遣するも、今回は成果が上がらず、戦線は拡大した。この後、呰麻呂の動静は記録から消えるが、捕縛処刑の記事も見えないことからすると、彼はしばらく根拠地で解放区的な支配を維持したとも考えられる。
 呰麻呂に続いてエミシの軍事指導者となるのは、より有名なアテルイである。彼の名の初見は、呰麻呂蜂起から9年後の789年のことである。この年、アテルイは現在の奥州市水沢の巣伏〔すぶし〕の戦いで征東将軍・紀古佐美〔きのこさみ〕の軍勢を大敗させ、名を馳せた。
 この頃、朝廷の長は平安朝創始者桓武天皇であったが、桓武は東北征服作戦に特に注力していた。紀古佐美の軍勢も桓武の厳命でエミシ軍を奥州まで深く追撃したところをアテルイに迎撃されたのであった。この後、体制を立て直すべく、朝廷は新たに征夷大将軍の臨時職を新設する。797年、その第二代に任命されたのが、有名な坂上田村麻呂であった。
 すでに前年以来按察使・陸奥守・鎮守将軍を兼任し、軍事作戦と東北経営の全権を委任されていた田村麻呂は優勢に作戦を進め、802年にはアテルイとその協力者モレの二人を降伏させた。同年、多賀城より北方の奥州に胆沢城を築城し、新たな東北経営の拠点とした。二人を平安京へ連行した田村麻呂は助命を進言するが、朝廷高官らの反対により、二人は処刑された。
 胆沢城は従来、『日本書紀』にも「日高見国」の名が見えるほど、エミシの独立した部族制社会が強力に維持されていた北上川流域の奥六郡にも支配を及ぼすうえで重要な拠点となったものと見られる。
 これ以降、エミシによる大規模な蜂起は見られなくなるとともに、強制移住を伴う朝廷によるエミシ俘囚化政策が本格化していく。これは軍事的征服から民族浄化への政策転換であった。