歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第14回)

十四 徳川吉宗(1684年‐1751年)

 享保元年(1716年)に7代将軍徳川家継が夭折したことで、ついに2代将軍秀忠ラインの徳川宗家は断絶した。そのため、御三家の中で将軍位継承権を持つ尾張藩または紀州藩から後継者を出す時がきた。
 当時政権の中枢にあった甲府派の新井白石間部詮房は御三家筆頭格の尾張藩主・徳川継友を推したが、6代将軍家宣正室の天英院が推す紀州藩主・徳川吉宗が反甲府幕臣の支持も得て、後継に決定した。
 吉宗後継という選択は大奥の女性たちをも巻き込んだ前例のない規模の権力闘争によって決せられたことではあるが、結果的には幕藩体制の存続にとって、まさに名前のとおり吉と出た。以後、徳川宗家は今日に至るまですべて吉宗の子孫から出ているため、徳川家は吉宗を境に紀伊系に切り替わったと言ってよかった。王朝であれば、吉宗以降を実質的な「新王朝」とみなすこともできる。
 吉宗の政治は「享保の改革」と称され、江戸時代における数少ない善政として記憶されているが、彼は将軍就任前、すでに紀州藩主として改革実績があり、若くして経験豊富な統治者であった。
 将軍としての吉宗は5代将軍綱吉を崇敬し、綱吉前半期の「天和の治」を範例としたようである。実際、両者はある種の合理主義者であった点で、共通性が見られる。ただ綱吉の場合は途中で悪政に逸れてしまったが、吉宗は最後までぶれなかった点で、改革者として名を残すことになった。
 吉宗改革のプログラムは多岐にわたったが、主要点は五公五民の増税・緊縮を軸とした財政再建と公事方御定書のような法制整備にあった。これは財政規律と法秩序という現代でもよく見られる下部構造に手を着けない保守的改革プログラムの典型的なものである。悪く言えば、収奪と抑圧の強化であった。しかし、大御所時代を含め30年以上に及んだ久々の長期政権の中でこれをぶれることなく実行したことで、体制は中興を果たすことができたのだった。
 吉宗もまた非民主的な封建支配者の域を出なかったとはいえ、恣意的な独裁者ではなく、目安箱のような下からの意見汲み上げの制度化や、隠密(御庭番)を使った情報収集などフィードバックの仕組みも導入していた。また公事方御定書も従来戦国法の残酷な見せしめの伝統を引きずっていた刑罰法令を緩和し、訴訟制度を合理化しようとしたものであった。
 思想面でも、体制教義だった朱子学よりも実学重視の傾向を見せ、洋書輸入の一部解禁など、一定の進歩的な姿勢をとったため、後に老中松平定信の反動政策で覆されるまで、江戸中期にある種のルネサンスをもたらした。
 こうして、全体としてはバランスの取れた合理的な封建支配者であったことが、彼の改革者のイメージを高めたのであろう。一方で、収奪強化により農民の窮乏を招き、以後百姓一揆の頻発を招いたことは、吉宗「改革」の負の遺産となった。