歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第2回)

一 先史東北の形成

 東北地方の先史時代に関しては、主に宮城県を舞台とした在野の考古学研究家による旧石器遺跡捏造が2000年に発覚して以来、それまで当該研究家の「功績」に帰せられてきた前・中期旧石器時代の存在が白紙に戻ることとなった。この事件は東北に限らず、日本全体の先史時代の編年に影響を及ぼす痛恨の一大不祥事となっている。
 東北地方の先史時代で確実に立証できるのは縄文時代以降であるが、縄文時代の東北地方は、現在よりも温暖だったと見られ、東日本では縄文人の拠点とも言えた関東地方に次いで縄文遺跡が豊富に見られる地域である。中でも、青森市三内丸山遺跡縄文時代前期から中期にかけての大集落遺跡であり、本州最北端の大規模縄文遺跡となっている。
 縄文時代には人口希薄であった西日本では、大陸から稲作や金属をもたらした移住民勢力が容易に土着し、弥生文化を開始したが、これは遅れて東北地方にも伝播した。青森津軽地方の垂柳遺跡は、東北北部でも地域的には弥生時代に稲作が行われていたことを立証した遺跡である。
 古墳時代に入ると、東北地方でも大規模墳墓の築造が見られるようになるが、これは南部を中心とする地域に集中している。特に関東地方とも接する今日の福島県域から仙台平野にかけての地域である。
 この地域の古墳の特色は、前方後方墳(ないし方墳)が多いことである。中でも宮城県名取市にある飯野坂古墳群は方墳のみで構成されている。これは関東地方最大の古墳密集地帯である両毛地域と共有する特色であることから、この関東の古墳勢力と一体的か、もしくは分離勢力が北上したものと推定される。両毛地域の勢力は方墳やその積石塚構造から高句麗系移住民を祖に持つとも考えられるので、東北の古墳勢力も同系と見る余地がある。
 ただ、東北地方の古墳には畿内型とも言われる前方後円墳も少なくないことから、畿内王権の影響も及んでいたと考えられるが、関東を越えて東北地方にも畿内王権の―多分に分権的な―支配が及ぶのは、6世紀半ば以降、国造制が整備されてからのことであり、それもほぼ今日の福島県域を中心とした南部に限られている。
 東北北部はと言えば、寒冷化した古墳時代以降、弥生文化の到達しなかった北海道で続縄文文化の担い手となっていたエミシ勢力が南下・移住してきたことが窺える。これにより、今日の宮城県中部以北はエミシ勢力圏となるが、この時代のエミシ勢力は東北南部の古墳勢力とは敵対的な関係になく、むしろ交易を通じて共存関係にあったことが考古学的にも立証されている。
 かくて、先史の東北地方は、大雑把に言えば、南部の和人古墳勢力と北部のエミシ勢力の均衡的共存でもって成り立っていたと考えられる。