歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第10回)

十 徳川家光(1604年‐1651年)

 徳川家光は前将軍・秀忠の次男であったが、兄が夭折したため、事実上は長男格であった。家光の30年近い治世の最初の三分の一は父・秀忠が大御所として後見した。父が寛永九年(1632年)に死去して以降は、単独統治者として実権を掌握した。
 単独統治者として最初に直面した危機は、寛永十四年(1637年)に勃発したキリスト教徒の反乱・島原の乱であった。これは幕府にとっては豊臣氏を滅ぼした大坂の陣以来の実戦経験であった。これに対し、幕府は10万人を超える兵員を動員して、翌年鎮圧した。
 家光がその創始者として記憶される「鎖国」という政策は、こうした体制を揺るがしかねないキリスト教の浸透を排除することで、幕府の支配力を強化し、対外的な独立性を保持しつつ、貿易利益を幕府が掌握するという体制護持・安全保障政策であった。それを可能とした土台は、自給自足が成立する農業生産力である。
 そのため、島原の乱の後、寛永十七年(1640年)から3年間続いた寛永の大飢饉鎖国政策にとって最初の大きな試練であったが、幕府は農業・商業統制策と田畑の売買禁止策でこの危機を乗り切った。
 家光はこうしたいくつかの危機を通じて、幕府の文武の組織機構を整備・完成させていくのであるが、このことに関して家光個人の手腕がどの程度寄与したかについては慎重に見なければならない。前半期は父の大御所政治であったし、親政を開始した後も松平信綱柳生宗矩〔むねのり〕、春日局〔かすがのつぼね〕といった有能な側近者に恵まれていた。
 ここで異彩を放つのは、家光の乳母であった春日局である。彼女は関ヶ原の戦いの功労者・稲葉正成の後妻から家光の乳母に抜擢され、家光の成人後も江戸城に残留し、大奥制度の整備に尽くした。しかし、彼女は大奥を越えて政務にも相当な影響力を持ち、老中を上回るとさえ言われた権勢を張るに至る。
 家光が将軍に就く前、父母が家光を嫌い、弟の忠長(後に改易)を溺愛するのを見て自殺を図った家光を春日局が止め、駿府にいた家康に家光後継を決定するよう直訴したとの逸話が残されているのも、家光の将軍就任に当たって彼女の尽力があったことの反映であろう。
 男尊女卑が徹底した近世封建時代にあって、将軍の妻でもない女性がこれほど政治的な影響力を持った例はなく、この時代において政治家と呼び得る地位にあった唯一の女性であった。  
 家光は生来病弱であったうえに、同性愛傾向のため、当初は女性に興味を示さなかったと言われるが、春日局の尽力もあり、側室との間の男子に恵まれ、二人の息子と孫が相次いで将軍に就いている。
 特に罪人の父を持つお楽の方(宝樹院)は、世継ぎたる男子(次代将軍家綱)を産んだ功績により、二人の弟も庶民の身分から大名に取り立てられる異例の栄進を享受した。
 家光は長生せず、慶安四年(1651年)に46歳で没するが、表向き・大奥ともに強力な側近グループに支えられながら、将軍在位は28年に及び、この間に「鎖国」に基づく江戸幕藩体制の基盤が強固なものとなったのである。