歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第6回)

五 松平広忠(1526年‐1549年)

 松平徳川氏の全史を通じて、この人ほど薄幸の当主はいなかっただろう。広忠は父の清康が守山崩れで不慮の死を遂げた直後に宗家乗っ取りを図った叔父の松平信定一派によって岡崎城を追放され、従者らと伊勢方面を放浪することとなった。
 しかし、家臣らの尽力により、敵の今川氏の庇護を得ることに成功し、天文六年(1537年)には岡崎城に帰還することができた。しかし、これは松平氏が今川氏に従属することを意味した。
 そのうえに、父・清康が狙った織田氏から逆に攻め込まれる事態となる。広忠帰還から間もない同八年(39年)には織田信秀(信長の父)が松平氏の前の拠点・安祥城に攻め込み、奪取した。これを足がかりに西三河征服を狙う織田氏に対し、同じくこの地を狙う今川氏も軍勢を送って対抗した。こうした松平氏を盾に取った織田‐今川間の戦闘が、1540年代に二度起きた。
 1548年に起きた二度目の合戦は大規模であった。この時、広忠は水野氏、戸田氏という有力家臣の相次ぐ裏切りにもあい、窮地に陥った。
 広忠が、織田方に寝返った水野氏の出であった妻(家康の生母)・於大の方を離縁し、今川氏の庇護を固めるため家康を人質として差し出さなければならなかったのも、この時であった。家族離散である。
 彼は戸田氏を買収して今川氏の人質として移送中の幼い家康を略取した信秀から織田氏傘下に寝返るよう脅迫されたが、拒否した。広忠は息子の身の安全より今川氏への恩義を優先するまさに封建的な忠誠心に満ちた人物でもあったようだ。
 結局、この時は今川方が勝利して、今川庇護下での松平氏の地位は保全されたのであるが、広忠は天文十八年(49年)、急死してしまう。享年22歳。死因には病死説と暗殺説があり、真相は不明である。当主の死因すら正確に記録されないほどに当時の松平氏家中は混乱・衰微を極めていたのであろう。
 ただ、継嗣の家康はこの時まだ織田氏の下に拘束されていたため、広忠の急死により、岡崎城は城主不在という非常事態に陥る。そこで今川氏側では、家康の奪還を図り、織田氏支配下にあった安祥城に攻め込み、一度は失敗したものの、二度目に城代で信秀の息子・信広を捕虜とすることに成功、信広との捕虜交換という形で家康を奪還した。この後、岡崎城には今川氏の代官が派遣され、西三河は完全に今川氏のものとなった。
 こうして、広忠時代の松平氏は大きく後退したため、広忠は弱体の当主として記憶されるようになった。しかし、凋落の発端となったお家騒動は広忠に責任のないことであり、当時の松平宗家は今川氏を頼る以外に存続の道はなかったこともたしかであった。ただ、広忠最大の「功績」は、松平氏を再興する以上の功績を上げることになる徳川家康を生み出したことにあるかもしれない。