歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第5回)

四 松平清康(1511年‐1535年)

 松平清康は、家臣団の信頼がなかった父・信忠の早期隠居を受けて、幼少で家督を相続した。祖父・長親の後見があったとはいえ、彼は周囲の期待どおり早くから武将としての才覚を発揮し始める。まだ15歳の頃には、宗家に対して反抗的であった大草松平家の居城を攻めて降伏させ、同家の拠点であった岡崎城を奪取し、所領を併合した。これは、松平宗家三河の平野部を根拠地とし、三河統一を達成するための足がかりとなった。
 実際、清康は以後、本来の拠点である西三河から東三河方面にも触手を伸ばし、この地の牧野氏、戸田氏、菅沼氏、奥平氏、熊谷氏など、孫の家康による江戸開府後に大名に取り立てられることになる有力国人領主を次々と打ち破って、1530年頃までに三河統一に成功した。清康まだ20歳にならない時分であった。
 三河統一から間を置かず、当時強大な織田氏が支配する尾張国の奪取を狙い、織田信長の叔父に当たる信光が拠る守山城に攻め込んだ。この時、清康の真の標的は信光の兄で信長の父に当たる織田信秀であった。清康はこの守山城攻めの時、部下のある勘違いにより、殺害されてしまう。
 天文四年(1535年)に起きたこの不可解な謀反事件(守山崩れ)の顛末は、家臣・阿部定吉織田氏内通の風評が流され、陣中で突然馬が騒いだことを父が討たれたものと錯覚した定吉の息子が清康を斬殺したというものであった。 
 これを奇禍として、家督を狙っていた叔父に当たる桜井松平家の信定が介入してきた。彼は清康の幼少の息子・広忠を岡崎城から追放して、城を占拠した。事実上の宗家乗っ取りであった。こうした手際のよさから推すと、守山崩れは自身、織田氏と密接な姻戚関係にあり、織田氏の真の内通者であった疑い濃厚な信定と娘の夫でもあった信光が仕組んだ謀略だったのではないかという仮説も、確証はないものの成り立ち得ると言えるだろう。
 これに対し、追放された広忠を奉じるグループは敵の今川氏に帰順して庇護を取り付けることに成功した。今川氏の後ろ盾を得て、広忠は岡崎城に帰還、信定も家督継承を諦め、本拠に撤退した。松平宗家はこのお家騒動を乗り切ったが、代償として今川氏に従属することになったのであった。
 清康が長生していれば、おそらく松平氏は彼の代で戦国大名にのし上がっていたであろうが、清康早世後の一族の内紛により、かえって松平氏三河での支配権を失い、弱小領主に逆戻りしてしまった。
 ちなみに、松平氏が新田氏系世良田氏流を公称し始めたのも、清康からと言われている。これは一度は三河統一に成功し、戦国大名に手が届きかけた清康が家系を飾るために吹聴し始めた伝説だったのであろう。