歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第3回)

二 松平信光(生没年不詳)

 現在のところ、初期松平氏の当主として史料に名が見えるのは、家系図上3代目の松平信光からである。信光の父は系図上2代目泰親とされるが、初代親氏の子とする説もあり、父母も生没年も不詳である。親氏・泰親二代は造作の可能性が高いため、結局信光の出自は記録に残らないほどマイナーであったということになろう。
 彼は後に貴族として賀茂朝臣を称したことから、松平氏の真の出自を平安貴族の賀茂氏とみなす向きもあるが、確かな証拠はなく、平安貴族の流れを称するのも、戦国時代以前の土豪らが家系を飾る仮冒の方策であった。賀茂朝臣は松平郷が属した加茂郡にちなむのだろうが、これはおそらく一帯が賀茂神社神領地であったことに由来すると見られ、松平氏はそうした神領地の富農名主層から出た一族と推定される。
 史実上確証のある信光の活動は比較的晩年に集中する。彼は室町時代末期、幕府の政所執事伊勢貞親の被官となり、和泉守の武家官位も与えられたことが知られている。
 被官としての主な功績は、寛正六年(1465年)に三河国額田郡で起きた土豪一揆の鎮圧である。これは当時、足利将軍家に連なる吉良氏の元配下の武士集団が幕府に反乱を起こした事件であり、室町幕府の威信低下を示す一件であった。これに対し、幕府は信光その他地元の国人衆に出動を命じ、鎮圧した。この功績で、信光は西三河方面に新たな所領を拝領し、勢力圏を拡大した。
 とはいえ、記録によれば、当初信光らはこの一揆に対し、傍観に近い態度を取り、伊勢貞親三河守護を通じて督促状を発してようやく討伐にかかったとされる。この経過からすると、当時の信光は形式上幕府官僚の被官の地位にはあったが、反乱を起こした国侍勢に対してすら、さほど優位な立場を確保していなかったと見られる。
 ともあれ、この一件で所領を拡大した信光は、続いて勃発した応仁の乱では東軍陣営に入り、西軍の畠山氏が拠る安祥城を策略を用いて奪取し、以後ここを松平氏の新たな居城に定めた。安祥城は三河国碧海郡にあり、この地を根拠にしたことは松平氏がさらに平野部へ進出していくうえでの足がかりとなった。
 信光は子沢山で、特に男子に恵まれたため、息子たちを分家させて各地に配置し、子孫の繁栄に寄与した。俗に「十八松平」と呼ばれる松平分家のうち少なくとも6家は信光の子を祖としている。このような他の武将家に例を見ない多分家作戦はその後、松平徳川家に踏襲され、継嗣断絶を防ぐ手段となる。
 一方、本来の根拠地・松平郷については異母兄とされる松平信広に委ねて分家させた(松平郷松平氏)。山間部の発祥地を固執も放棄もせず、庶きょうだいに分領したことは、自らの本宗家に万一のことがあった場合の最後の保険としての意義もある巧みな戦略であったと言える。
 信光は戦国時代の初期に没したため、彼の代の松平氏はまだ戦国大名化していなかったが、生没年に諸説あるとはいえ、どの説でもかなりの長寿を保ったようであり、そのことも松平氏の隆盛にプラスしたであろう。
 かくして、松平信光こそは、戦国大名松平氏の史実上の家祖と言える人物であり、おそらく彼は一代で一族を三河の有力国人領主に押し上げたセルフメードの人であった。