歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第2回)

一 松平親氏/泰親(伝承)

 関東平野を縦貫する東武伊勢崎線に世良田〔せらだ〕という鄙びた小さな駅がある。今日は群馬県太田市に属するこの世良田が松平徳川氏の系図上の家祖・松平親氏〔ちかうじ〕の出た新田氏系世良田氏の本貫地であることから、松平徳川氏の公式な発祥地ともされている。実際、世良田駅から20分ほど歩いたところに徳川家康を祀る世良田東照宮がある。
 これは寛永二十一年(1644年)、家康の孫に当たる3代将軍家光の命により、日光東照宮の奥社殿を新田氏の氏寺のような存在でもあった長楽寺の境内(明治の神仏分離により分離)に移築して創建された東照宮の一つである。将軍の肝いりでここに東照宮が創建されたのは、この地を松平徳川氏発祥地とみなす公式家伝の立場を補強するためであることは言うまでもない。
 しかし、松平徳川氏の家系図上の家祖・親氏と、親氏を助けて共に松平氏興隆の基礎を築いたとされる嫡子の泰親〔やすちか〕父子について、同時代の史料にその名は見えず、「親氏」といういかにも元祖を示唆する名前や親を安らかにしたとの含意であろう「泰親」といった名前からして、いずれも造作された人物である可能性は高い。
 興味深いのは、親氏は松平徳川氏最古参の筆頭家臣で、後に譜代大名となる酒井氏の家祖ともされていることである。それによれば、親氏ははじめ三河国碧海郡酒井郷の土豪酒井氏の婿養子となり、酒井広親を生むが、妻と死別後、今度は松平氏の婿養子に転じたといういささか取ってつけたような話となっている。これは、後に酒井氏が主家・徳川氏と同祖のつながりを持つことを強調するために造作された家系図だとも言われるが、逆に徳川氏側が本来は酒井氏の家祖伝承を横取りして自家の家系図に組み入れたという推定も成り立ち得る。
 真実の世良田氏南朝方について信濃で敗れた後、一族の者が一時三河に逃亡潜伏していた事実は実際に認められる。その間、地元土豪と何らかの接触を持ち、あるいはその息女との間に子をもうけるようなこともあったかもしれない。その事実はおそらく周辺地域で長く記憶され、家系を飾りたい土豪たちの家祖伝承に都合よく利用され、使い回しされることになったとも考えられる。
 ところで松平氏の真の発祥地松平郷は、今日の愛知県豊田市松平町としてその名を残している。鉄道駅はなく、最寄の名鉄豊田市駅からバスで40分ほどいった山あいの集落である。ここにも、世良田より古く、元和五年(1619年)に創建された松平東照宮がある。
 言わば元祖松平氏の発祥地がここ松平郷であるが、しかし松平郷という地名の史料初出は松平氏5代目長親〔ながちか〕の時であり、それ以前、この地が何と呼ばれていたかは不明のままである。つまり史料上の順序としては、人名の松平が先にあって、地名の松平は後ということになる。
 ただ、当時の土豪は地名を氏族名に流用することが珍しくなかったので、史料上の順序はともあれ、松平の名は松平という地名に由来する可能性は十分に存在する。それにしても、こんな鄙びた山間集落の土豪はいわゆる国人領主ですらなく、せいぜい武装した名主のような存在にすぎなかったとしか考えられない。
 しかも、後に庶宗家として松平宗家から分離して松平郷領主にとどまり、江戸開府後は旗本の交代寄合に遇せられた松平郷松平氏の所領は500石にも満たない規模であったところからすると、松平郷の実質生産高は低く、名主といってもたかが知れていたに違いない。
 実際、世良田氏の流れ者の食客を婿養子に取ったことが真実だったとしても、それは当時の松平家には近隣の国人領主家から婿を貰うほどの実力がなく、流れ者に家督を相続させるという苦肉の策を取らざるを得なかったことの反映であろう。