歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第1回)

 戦国大名は源氏系や藤原氏系を公称したがったが、明白に系譜関係をたどれる一部例外を除き、ほとんどの戦国大名は地方の国人領主土豪の出自にすぎなかった。であればこそ、武力で下克上して階級上昇を果たす中で、家系の由緒来歴を飾るため、家系図を捏造し、特に武家の憧れであった源氏系を仮冒する一族が多かった。
 中でも、江戸幕府の主となる松平徳川氏は、とりわけファンタスティックな家系図を作り出した。それによると、松平徳川氏の家祖は源氏系新田氏から分かれた世良田氏の流れである松平親氏〔ちかうじ〕とされているが、この親氏の来歴がなかなかドラマチックである。
 彼は本姓得川といい、本貫は上野国世良田であるが、南北朝時代南朝側に立ち、北朝・幕府側の鎌倉公方の軍勢に敗れ、相模国時宗総本山清浄光寺に逃げ込んで出家し、徳阿弥を名乗った。その後、徳阿弥は父親とともに一人の従者を連れて遊行僧として諸国を流浪するうち、三河国加茂郡松平郷という山あいの集落にたどり着く。そして、その地の土豪であった松平信重食客となった。跡取り息子がなかった信重は文武両道に秀でた徳阿弥に感服し、彼を婿養子に取り、家督を継がせることにした。ここに、松平親氏が誕生する。彼は養父の期待にこたえ、近隣の土豪たちを順次服従させ、戦国大名松平氏の土台を築いたため、親氏をもって松平徳川氏の実質的な家祖とみなすというのである。
 系図上では親氏から数えて9代目に当たる家康は、こうした来歴に鑑み、苗字を松平から親氏の本姓である得川の「得」の字を嘉字の「徳」に置き換えたうえ、徳川と改姓した。こうして誕生した家康を初代とする徳川宗家が将軍家となるわけである。
 こうした松平徳川家の家系図は今日、学問的にはほぼ否定されており、家康が側近御用学者の手を借りつつ集中的に施した仮冒工作の結果とみなされている。結局のところ、松平氏の由来は三河の山あいの集落を本貫とする一介の土豪にすぎなかったということになろう。足軽もしくは農民から出た豊臣氏を別とすれば、マイナー出自揃いの戦国大名の中でもひときわマイナーな一族である。
 そんな一族が浮沈を繰り返した後、全国を制覇して天下人となり、250年以上も持続した日本近世の支配体制を作り上げたというのは、不可思議なことである。これは、そんな異彩を放つ一族の謎を解く物語である。