歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載最終回)

エピローグ

 本連載では「国、皆王を称し、世世統を伝う」(『後漢書倭国伝)という分国状況の中、朝鮮半島加耶にルーツを持つ勢力が九州を経由して畿内に建てた一地域王権が、やがて百済系渡来人勢力に簒奪された後、曲折を経て全国的王朝に発展し、天皇制という独自の君主制を確立するまでのプロセスを順次追ってきた。
 最後に改めて総整理の意味を込め、天皇制確立までのプロセスをやや図式化して示してみることにしたい。


[一]地域王権時代(4世紀中頃‐477年頃)

 遅くとも4世紀前葉に九州北部へ渡来してきた加耶系移住民が東遷して畿内の在地諸勢力を糾合して建てた地域王権の時代。王権の構造は氏族連合体的なもので、王権は弱かった。
 この王朝は4世紀末から百済と修好するようになるが、5世紀に入ると高句麗対策の思惑から百済によって侯国化され、その統制を受けるようになった。461年には百済王弟・昆支が総督格で派遣されてくる。

[二]昆支朝創始・発展期(477年頃‐571年)

 475年、高句麗の侵攻を受けて百済王都・漢城が陥落した後の477年頃、昆支が本国百済の関与と支持基盤の河内閥(主として百済系渡来人勢力)の支援の下、クーデターで畿内王権の王位に就き、新王朝を開く(昆支朝)。倭国王昆支は「武」名義で中国の南朝宋に遣使した。
 昆支朝の王号は「大王」(和訓はオオキミ)で、旧加耶系王権時代の氏族連合体構造はいったん揚棄され、王権が強化された。昆支大王(応神天皇)の後、男弟大王(継体天皇)、クーデター(辛亥の変)を経て母方から旧加耶系王権の血をも引く獲加多支鹵大王(欽明天皇)と三代約90年に及んだ王朝創始・発展期には支配領域が大幅に拡大され、部民制を軸とする大王中心の中央・地方支配体制が整備された。

[三]昆支朝斜陽期(571年‐593年)

 昆支朝全盛期を作った王朝三代目・獲加多支鹵大王の40年に及ぶ治世の後、その皇子らの代になると、弱体かつ短命な大王が続き、獲加多支鹵大王代に百済から伝来した仏教の扱いをめぐって政権内で崇仏派と排仏派の抗争が発生し、王権の基盤が揺らぐ。
 そうした中で、昆支大王が百済から呼び寄せた豪族・木刕満致を祖とする崇仏派の蘇我氏の実権が強まり、王朝史上初の大王暗殺に発展、昆支朝は危機に陥る。

[四]蘇我朝時代(593年‐645年)

 昆支朝第6代崇峻大王を暗殺した蘇我馬子が自ら大王に即位して以来、孫の入鹿に至るまで蘇我氏が大王家として支配した時代。ただし、馬子は獲加多支鹵大王の娘で姪に当たる豊御食炊屋姫(正史上の推古天皇)との共治体制を取り、馬子の長子・善徳太子(正史上の聖徳太子)の没後、後継争いに勝利した馬子の息子・蝦夷は大王位に就かず、全権大臣にとどまったので、単独で大王位に就いたのは孫の入鹿のみである。
 明確な簒奪王朝であった蘇我朝の王号は従来からの「大王」に加え、「天足彦」(馬子)、「君大朗」(入鹿)など一定せず、本格的な「蘇我王朝」はついに完成しなかったが、全盛期の馬子大王時代には仏教を国教とし、大陸中国(隋)との「対等」外交を樹立し、大陸的な冠位制度を導入するなど、永続的な効果を持った政策も展開された革新の時代を画した。

[五]昆支朝復権期(645年‐671年)

 昆支朝正統王家のメンバーとその支持勢力が、強権的な暴君であった蘇我入鹿大王とその父君・蝦夷を暗殺した乙巳の変を経て、軽皇子が大王に即位し(孝徳天皇)、昆支朝を復活させた(後昆支朝)。
 後昆支朝は二度と王権を簒奪されないため、強力な大王至上制の確立を目指し、部民制解体・公民制への移行、氏族特権の剥奪、律令制の導入などを打ち出した。また、君号として従来の「大王」よりも超越的な「天皇」(和訓はスメラミコト)を案出した。
 この昆支朝復権期の途中で、王朝ルーツであった百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされ、倭によるレジスタンス支援も虚しく、百済は最終的に滅亡した。これを受けて、百済ルーツを離れた独自の国作りが目指され、天智天皇時代には新国号「日本」が用いられるようになった。

[六]天皇制確立期(672年‐701年)

 天智天皇死去後の後継者争いであった壬申の乱に勝利した天武天皇とその皇后で後継者となった持統天皇によって、天皇の地位がイデオロギー的にも制度的にもいっそう強化され、「天皇制」として確立された時期。
 天皇は神の化身たる現御神となり、持統天皇の指導により天皇を中心とする国定の歴史・神話が創造された。持統時代には都城律令も整備され、701年の大宝律令施行を経て、権威主義的な天皇律令国家が姿を現した。

 
 このようにして誕生した律令の衣を纏った天皇は、やがてその制度的確立に尽力した藤原氏(その祖は4世紀初頭頃の加耶系渡来人)の摂関政治によって実権を奪われた後、上皇院政という形での短い復権期を経て、臣籍降下された皇族出身の有力武家平氏と源氏に相次いで実権を奪われる。
 その後、700年近くに及んだ武家支配下の長い斜陽の時代を耐え、明治維新による王政復古と近代憲法に根拠づけられた「近代的神権天皇制」という変則的な形での復権、そしてその体制下での帝国主義的君主を経て、敗戦に伴う政治的権能なき象徴天皇への転化と、時代ごとに役割・機能を変えつつ、天皇はなおも存在し続けている。
 このことを“連綿”と表現するならば、それは本家が完全に亡びた百済王家の分家が1500年以上にわたって倭国大王家→日本天皇家に姿を変えて“連綿”と続いていることを意味することになる。天皇家は姓を持たない日本で唯一の一族であるが、もし天皇家が姓を持つとすれば、それは旧百済王家と同じ「扶余」もしくは中国風一字名で「余」である。
 こうした天皇の誕生をめぐる歴史的深相を、日本人は、また韓国・朝鮮人はいかに受け止め得るであろうか━。これは本連載の主題を超えた「民族」という概念に関わる大きな問いかけである。(連載終了)