歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第51回)

第十一章 持統女帝の役割

(6)「天皇」の制度的確立

立太子の制度化
 昆支朝では5世紀後葉の開朝以来、大王位継承をめぐる抗争が絶えず、6世紀末にはそうした抗争を巧みに利用した臣下の蘇我氏に王権を簒奪され、蘇我朝に取って代わられた。その蘇我朝から王権を奪還した後昆支朝でも、持統自身、身をもって体験した壬申の乱のような皇位継承をめぐる動乱を防ぐことはできなかった。
 こうした抗争が発生するのは、皇位継承の制度と手続きが未整備であったことが大きい。そこで持統は壬申の乱のような動乱の再発を防止するためにも、皇位継承制度の確立を自分の代の大きな課題とした。
 その中心が立太子の制度化である。元来、立太子に相当する制度は、昆支朝の大兄称号以来、徐々に整備されてきてはいたが、持統の一人息子の草壁皇子立太子されていながら、父・天武の死去後当然には即位できなかったように、制度としては未確立であった。
 しかも、持統は草壁の遺児でまだ10代の軽皇子に直接皇位を継承させるという前例のない代襲相続型の皇位継承をもくろんでいたから、なおのこと周到な理論武装と制度設計を必要としていた。
 ここで力を振るったのが、藤原不比等であった。彼は父・鎌足が晩年にもうけた息子で、669年に父が死去した時はようやく10歳ぐらいであった。そのため天武時代はまだ任官年齢に達していなかったが、持統の皇后称制時代の688年2月、刑部省判事に任命された9人の官人の中に初めて不比等の名が登場する。
 持統は律令の制定をライフワークとしていたから、とりわけ律に関わる刑部省の人事を重視していたと思われ、抜擢された不比等は法律に通じていたと見られる。
 この若手官人が大出世のきっかけをつかむのは、694年にかの県犬養三千代と結婚してからである。三千代はそれまで三野王という皇族の妻であったが、夫が筑紫大宰率となって任地に赴任した後、離婚して不比等の側室となったのである。
 三千代はこの時すでに軽皇子の乳母から持統側近にのし上がっていたから、一方で父・天智の知恵袋だった鎌足の息子・不比等に早くから目を付けていた持統が、妻とは不仲であったらしい三野王を筑紫へ飛ばして三千代を離婚させ、改めて不比等との再婚をセットしたのではないかとさえ思える。
 不比等は判事として出発した以上、法令に詳しく、軽皇子立太子に当たっては持統の法的理論武装を助けることができた。その結果―有力な皇位継承権者の一人であった太政大臣高市皇子の急死という幸運も手伝ったとはいえ―、持統11年(697年)2月に軽皇子立太子を実現、持統天皇は同年8月に軽皇子に譲位し(第42代文武天皇)、改めて新設の太上天皇上皇)に就いたのである。
 一方、不比等は同年、娘の宮子を文武天皇に入内させたうえ、翌年には彼の子孫だけが藤原姓を名乗る永久特権を授与され、藤原氏栄華の基礎を築くこととなった。任官からわずか10年での大躍進であった。

譲位の制度化
 こうした立太子の制度化と不可分のセットと言える施策が譲位の制度化であった。立太子が円滑に行われても、天皇死去後に謀反・動乱が発生することを完全に防止することはできない。そこで、天皇が生前、皇太子に譲位しておくことは、平和的な皇位継承を保証するうえで一つの有効な方法となる。
 この場合、譲位した天皇が役職に就かない方法もあり得るが、軽皇子天皇即位時、わずか15歳であったため、持統は太上天皇という地位を新設し、自ら就任した。
 この制度は、当時不比等らが鋭意編纂作業を進めていた初の本格的な律令大宝律令にも取り入れられて定着していき、後には上皇院政の道具ともなる重要な制度である。
 持統太上天皇は孫の文武天皇が年少のうえ病弱でもあったらしいことから、実質的には702年の死去まで天皇時代と変わらない実権を保持していたと見られる。従って、彼女は史上初めて院政を敷いた人物であるとも言える。
 後昆支朝のイデオロギーである一君万民思想の下では西欧君主制でしばしば見られたような親子共同国王制は理論上採れないため、天皇の背後に太上天皇という天皇に準じたポストを設けることが苦肉の策となったのであろうが、それが後世、上皇院政時代には不透明な二重権力を発生させる要因ともなった。
 しかし、さしあたり7世紀末の段階では安定的な皇位継承を実現し、天皇を制度的に確立するうえでは、生前譲位・太上天皇就任という手続きを法的に整備したことが重要であった。そして、この制度設計にも藤原不比等が深く関与していたことはほぼ間違いない。

即位の礼の定型化
 持統天皇は約3年半の皇后称制を経て天皇に即位したが、この時の即位の礼を見ると、大楯の立楯、天つ神の寿詞読み上げ、神璽の剣・鏡の献上、公卿百官の拍手という手順が明確になっている。
 中でも新しい点は、拍手であった。これは神拝の方法としてのいわゆる拍手(かしわで)と同じもので、天皇を神の化身と見立てる天皇=現御神という命題の儀式化である。
 ただ、持統の即位式では宣命の読み上げが記録されていないが、孫の文武天皇の時からは「現御神と大八嶋国知ろしめす天皇が大命らまと詔りたまう大命を、集り侍る皇子等、王等、百官人等、天下公民、諸聞きたまえと詔る」という前文で始まる宣命が読み上げられるようになる。
 こうした宣命の現存最古の記録は飛鳥池遺跡出土の木簡に記されたもので、7世紀末頃から使われ始めたと考えられる。そうすると、宣命も現御神テーゼとともに、持統天皇がその成立に深く関わっていたと見てもさしつかえないだろう。
 こうした即位の礼の定型化は皇位継承を慣習的なルティーン化することを意味しており、先に見た譲位・太上天皇のような法的な制度と組み合わさって、儀礼的な面から天皇を一つの体系的な制度として確立することを促進したであろう。
 ちなみに持統の即位式で天つ神の寿詞を読み上げたのは神祇伯中臣大嶋朝臣という藤原不比等とも親戚筋に当たる中臣氏の一族であったが、中臣=藤原氏が持統時代における天皇制の確立の局面で大いに貢献していた事実は注目されてよいであろう。

都城の建設
 以上のような天皇の法的・儀礼的な制度化に加えて、天皇制の持続性を担保する視覚的な表象をも伴う大舞台として、固定的な都城の建設という大仕事も持統の代に成し遂げられた。
 従来、昆支朝も蘇我朝も中国風の都城の建設にはなぜか無関心であったし、後昆支朝でも孝徳天皇時代は難波、天智天皇時代は筑紫、近江などたびたび遷都され、王都自体が容易に定まらなかったが、天武天皇の時代になってようやく都城の建設が計画されるようになる。
 はじめ治世5年に新木(今日の大和郡山市)に都城建設が計画されたが実現しなかった。その後、治世晩年の12年になって「都城や宮室は二、三箇所あるべきである」との天武の考えから、まず難波に都城を建設する詔が出されるが、これも実現しなかった模様で、翌13年3月9日に天武自ら京内を巡行して、都城建設地を選定した。結局、都城の地は飛鳥地域内ということで落ち着いたようである。
 そして最晩年の治世14年になって、泊瀬王、巨勢朝臣馬飼ら20人に「畿内の役」を任じた。これが本格的な都城建設プロジェクトの作業チームと見られる。しかし天武は翌年病没し、都城建設は妻の持統の手に委ねられることとなった。
 『書紀』でいわゆる藤原京のことに言及されるのは、持統4年11月に太政大臣高市皇子が藤原の宮地を視察したとあるのが初出であるが、おそらくこの頃(690年)には具体的な建設工事が着工され、最終的に持統8年(694年)12月に藤原京への遷都が成る。
 この日本初の条坊制都城は後の平城京平安京と比べても最大規模のもので、臣下の立ち入りを許さなくなった大極殿院を中核として、天皇の隔絶された権力を象徴する場として画期的な舞台装置となった。
 藤原京はわずか16年で廃棄されることになるが、以後もさらに数度の遷都を経て、周知のように京都の平安京天皇都城として明治維新まで固定される。それとともに、大枠としての後昆支朝の皇位自体は、中世の南北朝分裂を経ても二度と揺らぐことはなかったのである。

孫の軽皇子に譲位して太上天皇となった持統は、ライフワークであった初の本格的な律令大宝律令の施行(701年)を見届け、翌702年に没し、遺言により初の火葬された天皇となった。
持統は、通説上の過小評価とは異なり、7世紀半ば過ぎに百済ルーツを喪失した後昆支朝によって新装された「日本」の歴史・神話の基礎形成を指導し、天皇の制度的確立にも努めた天皇制の権化とも言うべきイデオローグであり、彼女の治世に確立された天皇イデオロギーは姿形を変えながらも、1300年後の現代日本社会をも強く拘束し続けているのである。