歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第50回)

第十一章 持統女帝の役割

(5)最初のフェミニスト

持統フェミニズム
 7世紀代の女性を「フェミニスト」と呼ぶことはいささか時代錯誤的であり、躊躇も覚えるが、持統の思想の根底には女性性を協調・讃美するある種のフェミニズムがあったと思われるのである。
 古代は全般に男尊女卑の観念が強い中、わけても男性優位で女王に否定的な百済に遠いルーツを持つ後昆支朝にあって、単独統治女帝の正統性を支配層内部で認めさせるには苦労も少なくなかったに違いない。
 そこで、持統は女性権力の正当性を単に政治的のみならず、思想的にも確証するために、女性性を讃美するような一連の思想を提示したものと考えられるのである。
 このことはもちろん、近代的な意味での「男女平等」であるとか、女性の地位の向上を目指したものでは全くなく、あくまでも自身の統治権力を正当化し、政権基盤を固めるという目的から出たイデオロギー戦略にすぎなかったのであるが、それでもこの持統フェミニズムは持統以降、奈良朝にかけてのべ4人(うち1人は重祚)もの単独女帝を輩出するきっかけをなしたことは間違いない。
 同時に、持統フェミニズムは男性編者の手になる記紀の中にも希釈化された形でなお反映されており、日本の歴史・神話に女性性に富んだ独特の性格を与える結果となったのである。この持統フェミニズムはまず持統の宗教観に集中的に表れるが、歴史観や一部政策実務面にも一定発現してくる。

天照大神信仰
 宗教観における持統フェミニズムの発現は、女神である天照大神を皇祖神として位置づけるという大胆な構想を提起したことに見られる。これは同時に、政策的にも宗教(反)改革としての重大な意味を持っていた。
 第六章で論じたように、昆支朝開祖・昆支大王は三輪山宗教改革に乗り出し、この地域本来の太陽信仰とその中心であった女神に代えて、出雲意宇王権との神聖同盟に基づき出雲神道を強制していたのだった。それに伴い、天照大神は畿外へ押し出されて、最終的に伊勢へ移置されたようである。この事実を示唆する記事が垂仁紀25年条に見える伊勢神宮の由来記事である。
 それによると、天照大神を鎮座する場所を探し求めていた垂仁天皇の娘・倭姫命[やまとひめのみこと]が伊勢国に至った時、「伊勢国に居りたい」との天照のお告げを聞いたので、祠を伊勢に建て、斎宮五十鈴川のほとりに置いたのが伊勢神宮の始まりだという。
 第七章で論じたところによれば、垂仁=継体(男弟大王)であるから、この記事をより現実的にとらえ直してみると、昆支大王を継いだ男弟大王代の6世紀前葉、天照大神は伊勢へ移され、伊勢神宮の前身社が建立されたと読める。
 ちなみに、伊勢は第四章で見た伊都勢力の太平洋側拠点の一つであったのだが、ここへ天照を移置しようとした昆支朝の意図はまだよくわからない。いずれにせよ、昆支朝の体制神道乙巳の変を経た後昆支朝の下でも持統以前は出雲神道だったのである。ところが、持統はこの開祖・昆支大王以来の宗教政策に重大な変更を加え、畿外へ排斥された太陽神たる女神を皇祖神として位置づけようとしたのである。
 この「天照大神=皇祖神」という新しい命題は、おそらく持統が即位前に招集した例の宗教会議で自ら百官に通達したものと思われる。このように皇祖が女神であるとなれば、天皇家の家長が女性であることも認められ、単独女帝にも道が開かれるのである。
 ただ、皇后のこの突然の通達は百官の間に波紋・動揺をもたらしたことは想像に難くなく、持統の天皇即位はともかく、「天照大神=皇祖神」テーゼは容易に受け入れられなかったと見られる。そこで持統は即位前の持統6年、自ら伊勢へ行幸することで伊勢神宮の威信を高める策に出た。
 『書紀』はこの時、持統が伊勢神宮を訪問したかどうか黙しているが、この行幸陰陽師に日取りを決めさせたうえ、14日間にも及ぶ日程の大がかりなものであったことからみて、単なる視察ではなく、宗教上の目的があったことは明らかである。
 ところが、この時、三輪朝臣高市麻呂[みわのあそんたけちまろ]という官人が「農時の妨げになる」という理由から、官位を賭して二度にわたり行幸に反対する進言をしたのである。三輪氏と言えば、第六章で見たように、昆支の宗教改革三輪山神官長に任命された出雲意宇王権王族・大田田根子を祖とする有力氏族であり、高市麻呂はその末裔に当たる官人である。
 彼が反対した表向きの理由は「農時の妨げ」であったが、実際には持統が従来の体制神道である出雲神道を捨てて天照大神を中心とする伊勢神道を興そうとしていることへの反発という宗教的理由があったことは間違いない。彼は昆支大王の宗教改革を逆行させるかのような宗教(反)改革に反発する勢力を代表していたのである。
 高市麻呂自身は壬申の乱にも功労のあった人で、彼の職を賭しての二度の進言に対して、持統も当初の3月3日出発予定を3日間延期したが、結局進言を却下し、同月6日に伊勢行幸に出たのである。ちなみに官位を賭したという高市麻呂は、結局次の文武天皇の代まで勤め上げ、従四位上左京大夫まで昇進している。文字どおりに職を賭すほどの気概はなかった模様である。
 こうして持統は抵抗勢力を押し切って伊勢神道を創始し、これは今日まで永続的な効果を保っているが、記紀の叙述を見る限り、天照大神は必ずしも皇祖神として絶対の地位を与えられているとは言えない。特に『書紀』神代編のクライマックスである天孫降臨場面の本文にはそもそも天照大神が姿を現さず、代わりに男性神高皇産霊尊タカミムスビノミコト]が天孫降臨の主宰者となり、この神が「皇祖」と呼ばれているのである。
 また戦前の皇国教育で暗誦を強制された天照大神がニニギに下す「葦原千五百秋の瑞穂の国は、これ吾が子孫の王たるべき地なり」云々という有名な神勅も、本文ではなく、別伝第一書に見えるにすぎない。同じ天孫降臨場面で天照がもう少し前面に出てくる『記』でも、天照大神は男性神高御産巣日神高皇産霊尊)との共同主宰神的な地位にとどまっている。
 記紀に見られるこうした天照大神の過小評価は、持統フェミニズムに対する記紀の男性編纂者たちの抵抗感の痕跡と理解することができそうである。

神功皇后説話
 持統フェミニズム歴史観への反映と考えられるのが、「神功皇后」の造型である。「神功皇后」はよく知られた「三韓征伐」のヒロインであり、朝鮮蕃国史観とも密接に結びつけられた征服王であるが、通常は男性である征服王が女性であるところに大きな特徴がある。
 「神功皇后」は見方によっては天照大神の人間化と解釈することもできるが、実在のモデルがあったとすれば、持統の父方の祖母である宝皇女(正史上の皇極=斉明天皇)と推定される。
 宝皇女が皇室の女性家長たる皇祖母尊として、百済救援のため老体を押して筑紫遷都に同行し、「西征」したイメージは、臨月の身重で三韓征伐へ乗り出していったとされる「神功皇后」と重なる部分もある。また、宝皇女も何らかの宗教に傾倒しており、宗教的な公共工事を好み、シャーマン的な性格を持っていた点で、同様にシャーマン的である「神功皇后」と重なる。
 持統はこの祖母を敬愛しており、朝鮮蕃国史観の基礎付けともなる征服説話の主人公にあえて宝皇女をモデルとした神功皇后を立てたのではないか。
 それはともかくとしても、神功皇后記紀では昆支朝開祖・昆支大王=応神天皇「母」という位置づけを与えられている。要するに、昆支朝生みの母という想定であり、皇祖神天照大神に次ぐ枢要な地位にあると言える。それと同時に、「神功皇后」は昆支朝とそれ以前の加耶系王朝とを接合して、統一王朝史観を支える役目をも担っている。
 このように、「神功皇后」は単なる征服王を超えた新生「日本」の歴史全体の主人公でもある。このような「神功皇后」の役割規定は細部では相違点も少なくない『記』と『書紀』とでほぼ共通しているところを見ると、「神功皇后」構想の原型は持統の時代にすでに形成されていたものと見るべきであろう。
 ただ、『書紀』が注記の形で、「神功皇后」を邪馬台国女王卑弥呼に比定しようとしたのは、いささか飛躍した編纂者独自の見解であり、持統の想定外であったと思われる。

命婦制度の確立
 持統フェミニズムの政策実務面への発現と言えるのは、命婦制度の確立である。このことに関わって注目されるのは、役人の新しい登用基準を示した天武2年5月の天皇の詔の中に「婦女は夫の有無及び長幼を問うことなく、宮仕えしたいと望む者を受け入れよう。その選考は一般男子役人の例に準ずる」とあることである。
 要するに、女性は既婚・未婚の別や年齢も問わず宮廷への就職希望者は広く受け入れ、選考は男子役人と同等ということで、まるで現代の「男女共同参画」政策を思わせるような先進的な女性登用政策である。こうして登用された女性官人(女官)も、高位者には天武4年に導入された官人の新たな俸禄制度である食封が男子役人と共に支給された。
 こうした積極的な女性登用策を進めた天武自身がフェミニストであったという特段の証拠もないので、政策決定の背後に「常に良き助言で、政務でも輔弼の任を果たした」と記される皇后時代の持統の献策があったと見ても不合理ではないだろう。
 天武10年5月条には、「百寮の人々の宮廷の女官に対する崇め方には行き過ぎがある」として、女官に対して自分の訴えの取次ぎを依頼したり、贈答品を贈ったりする行為を罰則付きで禁止する詔が出されているが、天武の治世後半になると、早くも政治的に有力な命婦が出現し、一種のロビー活動まで行うようになっていたものと見える。
 こうした有力な命婦の中の出世頭が、奈良朝以降の有力貴族・橘氏の祖となる県犬養三千代[あがたいぬかいのみちよ]であった。
 三千代は6世紀半ばの欽明=獲加多支鹵大王時代に設置された犬養部に遡る氏族出身で、元来その地位はさほど高くなかったが、天武時代に女官として採用され、皇太子・草壁皇子の子で天武と持統の孫に当たる軽皇子の乳母となって持統の知遇を得、女帝の側近ナンバーワンにのし上がる。そして女帝のもう一人の側近・藤原不比等―父・天智の知恵袋であった藤原鎌足の子―と再婚して夫妻ともども大出世し、やがて有名な光明皇后の母となる人である。