歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第49回)

第十一章 持統女帝の役割

(4)複雑な歴史観

天智・天武崇拝
 『書紀』は持統天皇が自ら執筆に関わったものでないことは明らかだが、その基本線には持統自身の歴史観がまさに影のごとく投影されていると考えられる。
 その「持統史観」の核を成すのは、天智・天武両天皇の事績の絶対化である。天智は畏敬すべき父であり、父の実弟・天武は崇敬する夫であったから、これは当然であったろう。
 特に自身がその申し子と言うべき乙巳の変は全面的に正当化され、美化される。この考えを継承して『書紀』の編纂者らは「大化の改新」史観を作り上げた。すなわち「大化の改新」に、持統も寄与した大宝律令以降の律令体制の出発点としての位置づけを与え、まるで7世紀半ばから律令国家体制の整備が着々と進んでいたかのような潤色を加えたのである。
 そのうえに、乙巳の変の時分にはまだ若者にすぎず、政変でも蘇我入鹿大王暗殺実行部隊長役を果たしたにすぎない天智(中大兄)を政変とその後の「改新」の中心人物であるかのように描き出した。
 そして、天智天皇治下最大の失政であった筑紫遷都・百済救援失敗の責めを直接天皇に帰せしめないようにするため、天智天皇の即位を近江遷都後まで繰り下げ、即位前に持統の祖母・宝皇女が「斉明天皇」として即位したかのような作為を施した。
 この編年上の作為を加えたのが持統自身なのか、『書紀』の編纂者なのかは確定し難いが、筆者は持統存命中にそのような作為の基礎資料が形成されていたものと推定する。
 持統はこのように父・天智を美化する一方で、父が創設した近江朝廷には否定的で、これを武力で転覆した夫・天武の行動を正当化し、壬申の乱の詳細を天武有利の観点に立って記録した。
 『書紀』の壬申紀に反映されている大活劇的描写は、乱の間、夫と行動を共にした持統自身による証言がベースになっているとしか考えられないほどリアルである。彼女が壬申の乱の記録を何らかの形で残していたことは間違いないであろう。
 そして、天武天皇の治世を極めて詳細に記録し、夫・天武を父・天智の構想を継承し、律令国家の基礎を築いた偉大な君主として描き出すのである。この天武崇拝は、まさに天武の子・舎人親王が責任編集した『書紀』はもちろん、『記』の太安万侶序文においても共通するモチーフとなっているものである。

蘇我氏の名誉回復
 生い立ちのところで、持統天皇は母方の祖父に当たる蘇我倉山田石川麻呂が父・天智もそれに責任を負う冤罪事件で自殺に追い込まれたことを苦にして狂死した生母への追慕の情から、秘かに蘇我氏への肯定的な感情を抱いていた可能性を指摘した。
 そのため、蘇我王朝を打倒した乙巳の変を正当化する一方で、蘇我氏の名誉回復をも図ったのである。しかし、彼女自身もその系統に属する君主であった後昆支朝にとって、簒奪者蘇我氏の直接的な名誉回復は許されないタブーであった。そこで、間接的な形で蘇我氏の名誉回復を図るために生み出されたのが「聖徳太子」であった。
 「聖徳太子」の正体は、前述したように蘇我馬子大王の長子・善徳であった。そうだとすると、蘇我王朝の象徴である善徳太子をそのまま聖人化して崇拝の対象とすることは先のタブーに触れる。そこで、善徳を用明天皇の子として皇統に編入したうえ、蘇我本宗家からは分離して聖人化するという作為を加えたのである。このことによって、とりわけ馬子大王時代の事績の多くを「聖徳太子」のそれに振り替え、もって間接的に蘇我氏の名誉回復を実現し得たわけである。
 この作為が確実に持統主導で行われたと推定できるのは、「聖徳太子」の伝承と信仰の発生時期が、天武・持統時代であったからである。しかも、天武は蘇我氏の血が薄い(母方の高祖母は蘇我稲目の娘・堅塩姫)昆支朝正統王家の系統であったから、蘇我氏の名誉回復に格別の関心を持つ理由に乏しく、「聖徳太子信仰」を広めた張本人は持統以外に考えにくいからである。
 実際、皇后時代の彼女は、天智天皇時代に火災で焼失したと記録される善徳ゆかりの法隆寺の再建を指揮し(完成は8世紀初頭)、ここを「聖徳太子信仰」のメッカとして整備しようとしたのである。同時に『上宮記』など「聖徳太子」の伝記類の編纂や、金堂薬師如来像光背銘などの金石文の造作も主導したと考えられる。
 この「聖徳太子プロジェクト」は大当たりし、強固な「聖徳太子」伝承と信仰が確立されていく。これが『書紀』で総括されて、「聖徳太子」は実質上日本の守護聖人のような存在となった。そして時代下って昭和の時代には一万円紙幣の“顔”として刷り込まれ、人々の財布の中にまで鎮座したのであった。

朝鮮蕃国史
 「持統史観」としてもう一つ特筆すべきは、朝鮮を蕃国視し、古来日本に従属・貢納する国として見下す史観(朝鮮蕃国史観)である。
 このような史観は、父・天智天皇百済滅亡による王朝ルーツ喪失を受けて近江で始めた新生「日本」の国作りを天武・持統が継承していく中、支配層内部で徐々に形成されていったと考えられるが、さしあたりは朝鮮半島統一国家となった新羅との関わりで形成されたものと見られる。そのことを示唆する持統天皇自身の言葉がある。
 それは即位前の称制時代、持統3年5月のこと、天武天皇の死去に際して派遣されてきた新羅の弔使の階級が低く、前例に異なることを非難し、贈答品などを封印・返却する報復措置を取った際、新羅側の説明を引用する形で「我が国は日本の遠い皇祖の時代より、何艘もの舟を連ねてお仕えする国です」云々と述べている箇所である。
 新羅自身がこのように説明していたという言い方は巧妙であるが、これは持統自身の朝鮮蕃国史観の表現でもあるのである。彼女はこのような史観に立ちつつ、「神功皇后」の三韓征伐譚を造作し、新羅に限らず、自らの遠いルーツである百済加耶任那)をも含めた朝鮮全体が古来日本に従属していたかのような史観を発展させた。
 『書紀』はこの史観をさらに整備し、「任那経営」などのより具体的な朝鮮支配の構図を構築し、朝鮮各国からの使臣がもたらす儀礼的な贈答品を「調」と律令的な貢納の表現で記述するのである。
 一方、記紀は昆支朝の百済ルーツを隠したうえで、王朝開祖の元百済王子・昆支大王を誉田別=応神天皇に変換し、昆支朝以前の加耶系王朝―加耶ルーツも天孫降臨神話の中に隠した―と接合させ、皇祖神・天照大神以来、神代から神勅に基づき連綿として継承されてきた日本独自の統一王朝の歴史を創造してみせたのであった。
 このような統一王朝史観は、記紀の編纂過程―とりわけ先行して完成したと言われる『記』のそれ―を通じて最終的に整理・体系化されたものと見られるが、次節で改めて述べるように、皇祖神たる女神・天照大神を起点とする日本独自の皇統というコンセプト―それは、朝鮮蕃国史観に基づき昆支朝の百済ルーツを歴史から抹消することと対をなす―自体は、持統が主導して提起したものと考えられるのである。