歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第48回)

第十一章 持統女帝の役割

(3)歴史‐神話の創造

天皇中心の国史
 持統天皇が夫・天武天皇から継承し、仕上げを試みた重要な事業に国史の編纂がある。天武はすでに治世10年の節目に当たり、帝紀及び上古の諸事の記録の校定を命じ、天智天皇の子・川島皇子を責任者とする作業チームを任命していた。
 これは、『記』の序文によると「帝紀と本辞は邦家の経緯であり、王化の鴻基である」との天武の考えから、各氏族に伝わる『帝紀』(歴代天皇の記録)と『本辞』(上古の諸事の記録)の内容がまちまちで、真偽入り乱れているのを統一整理したうえ、抜群の記憶力を持ったという舎人・稗田阿礼に暗誦させるという手法で行われた国史編纂プロジェクトであった。
 要するに、天皇至上制を確立するためのイデオロギー補完装置として天皇中心の国史の創造が要請されていたのであり、同時にその60年ほど前に蘇我馬子大王が企てたように、簒奪者が王権の正統性を粉飾するために行う歴史の書き換え作業という意味をも持っていたのである。
 すでに文字記録が普及し始めていたにもかかわらず、文書化せずに一人の舎人に記憶・口誦させるという古典的な手法が採られたことも、体制にとって都合の良い内容を天皇の近習であった舎人に誦み習わせることで歴史を検証不能な伝承と化してしまおうとする狙いがあったと考えられる。
 『記』序文によれば、この作業は天武の死によって中断し、平城京遷都後の和銅4年(711年)になって、時の元明天皇帝紀旧辞(本辞)の入り乱れているのを正そうとの考えから、改めて太安万侶稗田阿礼が誦む天武勅命の帝紀旧辞を撰録・献上せよとの命令を下した結果、編纂されたのが『記』であるという。この説明によれば国史編纂作業は天武の死後、25年近くも中断していたことになる。
 しかし、それは疑わしい。天武存命中は予備的な史料整理にとどまっていたと思われるが、本格的な編纂は持統天皇が継承していたと考えられるからである。そのことを示す記事として、持統5年8月条に、有力18氏にその先祖の墓記の上進を命じたとあることが注目される。
 ここに挙げられている18氏はいずれも古くから大王・天皇に奉仕してきた由緒ある中央豪族であり、各々の先祖の事績を記す家伝の提出を求めたのは、皇室に伝わる文書・旧伝の内容を補完する史料としてこれらの家伝が必要となったためと見られる。
 もう一つは、これに先立つ持統3年6月条に、天智天皇の子・施基皇子を責任者とする撰善宮司[よきことえらぶつかさ]、すなわち良い説話を撰録する作業チームを新たに任命したとの記事がある。
 これは単なる説話集作りではなく、国史に説話的要素を盛り込み、歴史物語(ヒストリー)としての性格を高めるために持統の発案で新たに開始された作業であって、国史編纂の一環としての位置づけを持つ追加プロジェクトであったと考えられるのである。
 こうした記事から推すと、『記』に直接の言及はないものの、国史の編纂は持統天皇の下でも鋭意進行していたものと理解されるのである。

国定神話
 持統天皇が新たに開始したもう一つの一つのプロジェクトは神話の創造である。前述したように、天武天皇の時代には天皇を神の化身と見立てる天皇=現御神というテーゼが確立されたが、この定式に歴史的な基礎付けを与えるためには神話を歴史の序章として構成し、天皇を神の子孫として提示する必要がある。
 そのようにして朝廷主導で編集されてできたのが日本神話なのである。そうであればこそ、記紀という史書も「神代」から説き起こされているわけである。
 この点が日本神話の大きな特徴であり、それは何よりも世紀末の朝廷が校定した国定の神話であり、単なる民間伝承的な神話とは全く異なるものである。しかも、それは一般的な古代多神教の世界とも異なり、皇室の祖として天皇権力に正統性を付与する「皇祖神」を主役とした一神中心的な政治的神話の体系なのである。日本神話がしばしば対比されるギリシャ神話と決定的に異なるのはこうした点においてである。
 おそらく神話の国定化を日本の朝廷ほど徹底的に行った体制は世界に例がないのではなかろうか。そして、その国定神話の創造を指導したのが他でもない持統女帝であった。そのことを示す根拠として、従来ほとんど注目されていなかった『紀』の持統3年8月条に見える次の一節がある。

「百官、神祇官に会集りて、天神地祇の事を奉宣る。」

 これは持統が招集した宗教会議と呼ぶべき大会議で、おそらくここで朝廷主導の国定神話の内容が討議されたに違いない。このような会議は公式には一度しか記録されていないが、非公式な形では持統天皇時代を通じて複数回開催された可能性もある。
 ちなみに、持統天皇の二つの和風諡号のうちの一つ、「高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」に日本神話における天つ神の住まう世界を意味するキーワード「高天原」が冠されているという事実に、持統天皇と日本神話との緊密な結びつきが暗示されている。こう言ってよければ、「高天原」を創造したのは政治家持統なのであった。

持統へのオマージュ
 以上のような歴史及びそれと分かち難く結び合った神話―歴史‐神話―の創造は、持統天皇が孫の軽皇子皇位を譲って太上天皇上皇)に退いた後も鋭意継続されていたと言ってよいであろう。
 確証はないが、稗田阿礼に口伝させる基本的な作業は持統の時代にほぼ完了していたのではないかと思われる。その後、8世紀に入って平城京遷都後の奈良朝が時代の節目に当たり、稗田阿礼が口誦した記録の書籍化を企画する中で『古事記』と『日本書紀』(正式には『日本紀』)の二書が誕生する。
 このうち前者の『紀』は編者の太安万侶の序文によって時の元明天皇の命令で編纂されたことが明確に示されている。元明天皇持統天皇の父方の異母妹かつ従妹にして息子の草壁皇子妃でもあった人で、持統とは何重にもゆかりの深い人であったから、元明が『記』の撰録を発案した背景に持統への敬意があったとしてもおかしくはない。
 一方、『書紀』のほうは序文も付されていないことから成立の経緯がよくわかっていないが、完成したのは元明天皇の後を継いた娘の元正天皇代の養老4年(720年)のことであった。元正天皇草壁皇子の遺子で、持統の孫娘に当たり、持統直系の女帝であった。しかも、『書紀』の編纂総裁を務めた舎人親王天武天皇の子で、持統の甥にも当たり(異母妹の子)、持統9年に天皇から浄広弐に叙せられた縁がある。
 このようにして、記紀はいずれも奈良朝時代に持統と縁の深い天皇・皇族の手によって公刊された史書であり、天武色以上に持統色の方が強い、持統天皇へのオマージュと言ってもよい性格を伴っている。
 この点、稗田阿礼口伝の言わば縮刷版である『記』の安万侶序文では天武天皇によって国史編纂が開始されたという経緯が強調され、持統への言及は見られないが、8世紀前葉の奈良朝から見て「現代史」に相当する叙述を含む『書紀』が持統紀をもって最後を飾っているのは、それ自体が持統への献呈としての意味を持つものとも言える。なぜなら、平城京遷都前までを「現代史」ととらえるならば、持統の次の文武天皇時代を叙述する文武紀で最後を飾ってもよかったからである。
 持統紀の人物紹介で(架空や分身像を含めた)『書紀』収録の歴代天皇の中でも最大級の賛辞を贈り、「深沈にして大度」「礼を好み節倹」「母儀の徳あり」などと礼賛していることも、そうした持統へのオマージュの裏づけとなる。