歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第46回)

第十章 天智天皇天武天皇

(4)天武天皇の実像

兄の同志
 天智天皇の同母弟で、後に第40代天武天皇となる大海人皇子―逆に天武を天智の兄とする説もかねてより存在するが、ここでは立ち入らない―の動向が『書紀』で最初に確認されるのは、孝徳政権末期、中大兄が無血クーデターで難波から飛鳥へ遷都を強行した際に兄に同行したとの記事である。
 その後、百済救援の時に彼が果たした役割はよくわからないが、筑紫遷都にも同行したことは、後に皇后となる妃の鸕野讚良[うののさらら]皇女が後の皇太子・草壁皇子を筑紫で出産している事実からも明らかである。
 大海人の実務面での実質的なデビューは白江敗戦後の664年2月に兄の命により甲子の宣を発布した時である。そして、近江遷都後の667年(正史上は天智元年)に東宮太皇弟[ひつぎのみこ]の称号を得て、正式に後継指名を受けている
 天智が自身の忠実な同志として振舞っていた実弟をいったんは後継者に定めようとしたのは、自身は男子に恵まれなかったせいであろう。天智には『書紀』に挙げられているだけでも14人の子がいるが、皇后で天智自身が討伐した異母兄・古人大兄の娘・倭姫王[やまとひめのおおきみ]との間に子がなく、14人全員が庶子であったうえ、内訳は女子10人、男子4人で、4人の男子の中で成人まで生き残った3人の実母はすべて身分が低かった。
 天智が後に天武の皇后、そして天皇にも登位した鸕野讚良を含め、4人もの娘を大海人に嫁がせたのも、将来大海人が皇位を継いだ後も、自らの血が実弟の家系に継承されていくことを期待してのこと―事実、そうなった―と考えられる。とはいえ、いざ弟を後継者に立ててみると、天智の胸には割り切れない気持ちも去来したであろうことも、想像に難くない。

天智の変心
 こうした天智の複雑な思いが表面化してきたのは、治世末期の670年に息子の大友皇子を新設の太政大臣に任命した時のことである。
 太政大臣とは前年に内大臣として事実上の首席大臣の座にあり、乙巳の変以来天智の知恵袋でもあった藤原鎌足が病没したことを受けて、新たに設けられた律令制の先駆け的な制度である。この要職に大友皇子を就けたのが、天智の心変わりの始まりであった。
 大友皇子は天智が後宮采女に産ませた子で、実母の身分は低かったが、665年に講和のため使節団を率いてやってきた唐の使者・劉徳高が引見して「この皇子は風格・容姿が世人とは異なり、この国にそぐわないくらいだ」と絶賛したというほど、人格識見に優れた人物であったようで、とみに評判が高まっていた。
 そのため、父・天智としても、ある時点から大友皇子を後継者とする腹づもりをしていたと思われ、若い大友をあえて太政大臣の要職に任命して、政治経験を積ませようとしたのだろう。
 天智がもう少し長く生きていれば、大友へのスムーズな皇位継承を実現することも可能であったかもしれないが、天智は間もなく発病し、死の床に伏せることになる。
 この先、『書紀』では天智が大海人を病床へ呼び出して皇位を譲りたい旨を伝えるが、大海人は固辞し、皇位は皇后に譲り、大友皇子を皇太子として諸政を行わせるよう進言、天皇はこれを了承したとされる。そして、大海人は天皇の許可を得て出家し、吉野へ隠退していく話になっている。
 しかし、天智は大海人をすでに後継指名してあったのに、改めて死の床で禅譲を申し出るというのは不自然である。元来、『書紀』は天武の子である舎人親王が編纂総裁となって編集されたものであるだけに、天武天皇を偉大な君主として礼賛する「天武崇拝」を基調としているから、この“出家”から挙兵に至るまでの経緯は明らかに天武に都合よくまとめられている。
 思うに、天智は大友皇子太政大臣に任命した時点ですでに心変わりしており、大海人を病床に呼び出したのは、「大友後継」の新方針を告げ、「東宮太皇弟」の大海人を太政大臣など大友を補佐する役職へ異動させることに同意を求めるためだったのである。
 これに対して、すでに兄の変心に感づいていた大海人は表面上「大友後継」に同意しつつ、自らの役職転換はやんわり固辞し、病気を口実に出家による政界引退を申し出たのである。
 しかし、数々の謀略を成功させてきた天智が大海人の“出家”を額面どおりに受け止めたとは考え難く、こちらも表面上弟の申し出を許可しながら、大友皇子らには大海人の今後の動静に注意し、ひょっとすると政敵に謀反の罪を着せて滅ぼす得意の手法を伝授さえしたかもしれない。
 ともあれ、天智は間もなく死去し、さしあたって近江朝廷は大友皇子を擁して重臣の集団指導体制が採られることになる。

“出家”から挙兵へ
 『書紀』によると、大友皇子天皇に正式に即位しないまま、壬申の乱に敗死したことになっているが、平安時代以降、「大友即位説」も強くなり、近代になって「弘文天皇」の諡号も追贈された。
 平安朝下で「即位説」が高まったのは、奈良朝最後の光仁天皇天智天皇の孫に当たり、光仁の子・桓武天皇が平安朝を開いたことで、以後は「天智系」皇統に確定したため、近江朝廷が再評価されるようになったことが関係しているかもしれない。
 しかし、より実質的に考えて、大海人の“出家”を信用していなかった天智は大友に早期の即位を遺言していたはずであり、大友が父の死去から間を置かずに即位していた可能性は十分にあると思われる。『書紀』が大友の即位を記さないのは、天武にあからさまな皇位簒奪者の汚名を着せないようにするための政治的な作為とも考えられるのである。
 いずれにせよ、“出家”して吉野へいったん隠退した大海人は、間もなく近江朝廷が自分を抹殺しようとしている徴候があるとの密告を受け、挙兵を決意する。
 この挙兵動機となった「謀略」は実在したのか、それとも元来皇位簒奪の機を窺っていた大海人側の口実にすぎないのか。先述したように、死の床にあっても意識ある限り謀略家であった天智は、大友らに大海人の早期抹殺を教唆していた可能性は十分にあり、「謀略」は真実であろう。しかし、近江朝廷の誤算は、朝廷内に大海人の内通者が伏在しており、謀略の動きを大海人側に察知されたことである。
 こうした謀略の発覚は、元来皇位簒奪の機を窺っていた大海人にとっては挙兵の絶好の大義名分となった。『書紀』が本人の言葉として伝えているように、「隠退して療養に努め、天命を全うするつもりであったのに、自分を亡き者にしようという策動を黙って見ていられるか」というわけである。
 大海人は先手を打って東国入りし、軍を徴発して挙兵準備にかかる。こうして勃発した壬申の乱の詳細は『書紀』の天武天皇即位前紀(壬申紀)に活写されており、「天武崇拝」の『書紀』が最も力を入れて叙述する小戦記となっている。

遊興人・天武
 壬申の乱皇位継承をめぐる天下分け目の動乱ではあったが、長期の内戦に発展することはなかった。『書紀』の大活劇的描写をもってしなくとも、大海人は本質的に武人であったのに対して、大友は人格識見に優れていたとしても、文人タイプの若者にすぎず、海千山千の叔父を武力で滅ぼすことができるほどの機略を持ち合わせてはいなかったのである。
 それに加えて、近江朝廷内部にも、天智が死の直前に後継者を変更し、生母の身分が低い庶流の皇子を後継者に立てたことへの当惑・反発も相当にあり、確信をもって大友を守り抜こうとする者は少なかったと見られる。
 こうして、乱は比較的短期決戦で大海人側の勝利に終わり、近江朝廷はわずか5年ほどで滅んだ。もっとも、天皇となった大海人は政治的には兄の路線の継承者であったから、後昆支朝自体は系統を変えて継続していく。
 天武政権の主要な事績は兄が志半ばに終わった律令制を基軸とする天皇至上制の確立に努めたことである。そのために、まず治世5年という即位後の比較的早い段階で、後期天智政権時代に天武も関わった甲子の宣で諸氏に支給されていた部曲(民部)を全廃し、官人の俸禄制度である食封[じきふ]制度に切り替え、氏族の経済的特権を剥奪した。
 そのうえで、甲子の宣で示された氏族等級制をより制度的に高め、有力氏族を真人・朝臣宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八等級に分ける「八色の姓」を制定した。これは従来のような「豪族」の割拠状態に最終的なピリオドを打ち、天皇を頂点とする貴族制度の幕開けを告げる施策であった。
 天武政権はこうした政治経済的な土台を踏まえ、中央省庁の整備にも取り組み、天智時代には完成しなかった令の編纂事業にも本格着手した。
 これらの「痛みを伴う」諸改革を上から断行していくためにも、天皇の地位はいよいよ高められ、万葉集でも「大君は神にしませば」とまで歌われるほどに神格化されていった。天皇を神の化身に見立てる「現御神(あきつみかみ)」という天皇制に特有のキー観念も、天武時代に作り出されたと考えられている。
 おそらく「天皇」を「テンオウ(後にノウに連声化)」と音読みする習慣も、この時代に確立されたのではなかろうか。それまでの「スメラミコト」はまだ「最高位の貴人」にすぎなかったが、「テンオウ」は「天の皇帝」であり、かつての「治天下大王」はついに天まで昇って神そのものになったのである。
 しかし、生身の人間としての天武の本領は武人であり、決して神の化身でもなければ、大政治家でもなかった。彼は壬申の乱の功労者たちが早世すると驚き嘆く哀楽の情の激しい人柄で、博戯(すごろく)や無端事[あとなしごと](クイズ)を好む宴会好きの遊興人でもあった。そして『書紀』は明確に記さないが、酒色をも好んだと思われる。
 神の化身となった天武は、現実の政治においては大臣を置かず、要職を身内で固める独裁政治(皇親政治)を展開したが、その中で天武政権の実質的な太政大臣格として影の実力者となったのが、『書紀』で「終始天皇を助けて天下を安定させ、常に良き助言で、政治面でも輔弼の任を果たされた」と讃えられる鸕野讚良皇后であった。
 実際、この人がいなければ、神の化身もまともな政治運営をなし得なかったであろう。兄・天智の知恵袋は藤原鎌足という官人であったが、天武の知恵袋は皇后であったのである。

 乙巳の変で成立した後昆支朝は、天智・天武兄弟天皇の治世計30年ほどの間に、将来の律令制国家へ向けた基礎を整備した。この間、王朝ルーツの百済は滅亡したが、それはかえって倭が独自国家「日本」として自立する契機となった。
その新生「日本」の神話と歴史の構築に深く関わり、律令制を完成させ、神の化身にまで昇華された天皇を制度的にも確立したのは、天智でも天武でもなく、両者の血を引く一人の女帝ではなかったか。