歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第42回)

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」

(4)改新的復古

孝徳政権の成立
 乙巳の変によって軽皇子が王位に就いて開始した新政権の施策は正史・通説上、「大化の改新」と呼ばれ、律令国家の建設へ向けた最初の一歩として高く位置づけられてきた。
 しかし、乙巳の変の当面の目的は、蘇我朝を打倒して敏達大王系統の昆支朝正統王家を復権させることにあった。昆支朝の復活を場所的にも印象づけるため、新政権は政変を機に王都を昆支朝ゆかりの地・難波に遷している。そうした点では、孝徳政権の施策は単純な「改新」ではなく、その本質は「復古」と見るべきである。
 とはいえ、この新政権は蘇我朝成立以前の昆支朝(初代昆支から崇峻までの六代)の単純な復活ではもはやなく、旧昆支朝以来の社会体制を打破しようとする志向性も強いため、これを旧昆支朝と完全に同視することもできない。そこで、軽皇子が大王(孝徳天皇)となって開いて以降の新王朝を旧昆支朝に対して「後昆支朝」と呼ぶことができる。
 この「後昆支朝」の最初を飾る孝徳政権の陣容で注目されるのは、発足当初から孝徳の甥に当たる中大兄が「皇太子」に座っていることである。もっとも、この時代にはまだ皇太子制度は法的に確立されていなかったため、これは早期の後継指名ということであろうが、これによって蘇我朝の命脈を縮める要因ともなった王位継承をめぐる抗争が生じないよう未然防止を図ったものと考えられる。
 それと同時に、故・舒明大王の子で正統王家の中ではより直系に近い中大兄を後継者に固定したことは、中大兄こそが復活王朝の本命視されていたこと、その限りで孝徳政権は中大兄が成長するまでの過渡的な暫定政権の性格を持っていたことを示唆している。
 一方で、同じく大兄称号を持つ中大兄の異母兄・古人大兄は、『書紀』によれば一度は即位を打診されながらこれを断り、出家して吉野へ隠退したとされるが、前にも指摘したとおり、軽皇子擁立は鎌子らの既定方針であったことからして、即位の打診は疑わしく、実母が蘇我馬子大王の娘で、大王即位前の入鹿に利用されたこともあり、蘇我氏と近かった古人大兄は自らにも累が及ぶことを懸念して自発的に吉野へ退避したと考えられる。
 結局、彼は乙巳の変からわずか3か月後に、一部官人らと共謀して謀反を計画したとして中大兄に討たれている。この一件には冤罪の疑いもなくはないが、いずれにせよ古人大兄は早々と排除されたわけである。
 もう一点注目すべき人事は、馬子大王の孫に当たる蘇我倉山田麻呂が右大臣の要職に任命されたことである。この人は乙巳の変の前、中臣鎌子蘇我氏分断の計略に乗せられて娘を中大兄に嫁がせ、決行直前に中大兄から計画を打ち明けられたうえ、謀議に引っ張り込まれ、入鹿の暗殺舞台となった外交式典で三韓からの上表文を読み上げる役を割り当てられている。
 そうした“功労”とともに、蘇我氏がもはや王家でなく、本来の分際である臣下に降下されたことを明確に示すためにも、あえて蘇我氏の一族を右大臣に抜擢したものと考えられるのである。
 ところで、政変最大の首謀者・中臣鎌子はと言えば、彼は内臣[うちつおみ]として諸官の上にあったとされるものの、内臣という新設の役職はあいまいであり、以後、藤原の氏を賜った天智天皇時代の669年に没するまで表の政治舞台では影の薄い存在に終始する。鎌子の性格として控えめで表に出たがらない人物であった可能性もあるが、政変後は中大兄の個人的な政治的指南役として、大兄の「育成」に徹していたのではないかと思われる。

大王至上制
 通常「大化の改新」と呼ばれる施策は、ひとことで言えば「大王至上制」の確立ということに尽きる。孝徳政権は単に正統王家の形式的な復活だけで満足せず、将来にわたって二度と王権が簒奪されることのないように政治・行政面でもイデオロギー面でも、大王を唯一至高の超越的な統治者として位置づけるという旧昆支朝や蘇我朝も踏み込むことのなかった国家制度の確立を目指したのである。
 「大化の改新」と呼ばれる施策の律令制的な「改新」の部分はこの大王至上制に関わるものであって、その最大の目的は昆支王統の恒久化ということにあった。その点で、この「改新」はどこまでも王権永続化のための手段的なものにすぎず、『書紀』が描き出すような律令国家の建設を自覚的に目指した革新などではなかったのである。
 また、それは半世紀余りにわたった蘇我朝時代を全否定するものでもなく、むしろその成果面を利用しながらの「改新」でもあったのである。
 こうした大王至上制の柱となる具体的な政策の第一は公民制への移行、すなわち従来人民が氏族別に領有された部民制を廃して、全人民を公民として大王が領有する制度の導入である。
 従来、各氏族が大王に奉仕しながらも各々人民(及び土地)を領有するという部民制は、各豪族が元来は支配地域の王でもあるような小邦分立状態を止揚して領土国家化を図ってきた畿内王権にとってはさしあたり現実的な支配体制であったが、かえってそれを足場として蘇我氏のように中央の王権簒奪を断行することも可能であったことから、そうした可能性を封じるためにも、人民(農民)を包括的に大王に隷属させる総体的奴隷制の一形態として、公民制への移行が構想されたものと考えられる。
 これを表現するためのイデオロギーが、大化2年3月の中大兄の奏請文の形を借りて発せられた「天に双日なく、国に二王なし。この故に、天下を兼ね併せて万民を使い給うべきは、ただ天皇のみ」という一君万民思想であった。
 さらに、この一君万民思想を担保する習俗改革としての厚葬禁止令がある。これにより、大王を頂点として階級ごとに墓の規模が規制され、豪族が大王気取りの大墳墓に納まることは許されなくなり、地方豪族までもが大墳墓築造を競い合った「古墳時代」は正式に終わりを告げたのである。
 第二は、部民制解体に伴う冠位制度の充実と中央政府機構の整備である。このうち冠位制度は、すでに蘇我朝時代に導入済みのものを7種13階に再編したうえ、冠や服の色を細かく区分けして等級をより明確にしただけである。
 一方、中央政府機構は従来の部民制と結合した大王直轄職業部に代えて、より律令制に近い官庁制度の構築を目指したもので、後の体系的な「八省百官」には程遠いが、「刑部尚書」「衛部」「祠官頭(かむづかさのかみ)」などの官庁が萌芽的に現れている。
 第三は、旧昆支朝の欽明時代以来、畿内王権による地方支配の要となっていた国造制の廃止と評[こおり]制への移行である。
 評は後の律令制下では「郡[こおり]」に改正される地方行政単位の前身で、これによって従来、国造という人を単位に委ねられていた地方行政権が評という観念的な行政単位に凝集され、より中央集権的な地方支配の制度に変更されることになった。そのうえで、評にはほぼ同等の権限を持つ評督と助督という二頭制を敷き、在地豪族を競合的に任命してその弱体化を図ったのである。
 これと関連して、国造らの軍事力を削ぐため、国造が保有する武器を接収して中央政府が所管する武器庫で管理する一種の刀狩が実施された。
 以上の大王至上制の象徴的な表現として、「天皇」号の使用が孝徳政権時代に開始されたものと推定される。この点、「天皇」号使用の起源については諸説あるが、史料上は孝徳天皇の詔から「明神[あきつみかみ]として天下を治められる日本倭根子天皇」という定型文言が現れる。
 このうち天皇を神の化身とまでみなす「明神(現御神)」の観念は時代下って7世紀以降に現れるもので、この文言を孝徳時代に遡らせたのは『書紀』の作為と考えられるが、孝徳時代から新たに「大王」号よりいっそう超越的な「天皇」号が孝徳の好んだ側近学者によって創案された可能性はある。ただし、孝徳時代には必ずしも音読みせず、通常は「スメラミコト」と訓読みしたものであろう。
 この「スメラ」の原意・語源については古くから議論があるが、いずれにせよ「高さ」に関わる修飾語であることは間違いなく、これが「天」の字と通ずるものであろう。従って、「スメラミコト」とは「崇高な貴人」といった極めて超越的な意味を持つ君号となる。かつて蘇我創始者の馬子が「アメタラシヒコ(天足彦)」を称したが、これをさらに洗練させたのが「スメラミコト(天皇)」であった。
 そして、孝徳政権はまさに「天皇」の超越的権力を視覚的にも表現するため、昆支朝にとってゆかりの深い難波に遷都して壮大な難波長柄豊碕宮[なにわのながらのとよさきのみや]を創建したのである。
 とはいえ、以上の大王至上制は主として政治・行政面及びイデオロギー面の、言わば社会の上部構造的次元にとどまる「改新」であって、最も重要な経済的土台となる土地を大王に集中する公地制については未着手であった。『書紀』は公地制を前提とする班田収受法の施行も孝徳朝に遡らせているが、これについてはかねてより強く疑われている。
 しかも、大王至上制の柱となる公民制ですら、完全実施には程遠かったようであり、豪族らの特権はなお温存されていた。よって、この「改新」は多分にして上滑りの精神論にとどまる面があったと言わざるを得ないのである。このことは、さらなる政変の勃発を予想させた。

脱・百済のくびき
 孝徳政権は、対外政策についても変更を加え、蘇我朝末期に始まった「百済のくびき」からの脱却を試みている。その最初の一歩は、新羅との関係改善である。
 まず、乙巳の変から2年後の647年には新羅から「人質」として金春秋を受け入れている。春秋は後に百済を滅ぼした武烈王(在位654年‐661年)となる大物で、「人質」としての彼の任務は、去る642年に百済の侵攻を受けて以来、窮地に陥っていた新羅の状況を救うため、倭を百済から引き剥がす外交工作にあったと思われる。
 この工作は一定の効果を上げたと見え、春秋は間もなく対唐交渉を本格化させるため、倭を離任して入唐し、代わりに649年にはより序列下位の金多遂が新たな「人質」として送られてきた。
 このような新羅との関係改善をきっかけとして、孝徳政権末期の653年と翌年に連続して遣唐使を送り、20数年間中断していた対唐外交を再開した。ただし、ここでも蘇我朝時代(特に馬子時代の対隋外交)と同様、冊封を受けない「対等外交」の方針が踏襲されている。
 こうして百済のくびきを脱して、新羅・唐へ接近していく外交政策は、結果的には対隋関係を軸に新羅とも友好関係を結んだ蘇我馬子大王時代の政策への回帰にほかならなかった。この点では、馬子大王時代に達成されかけていた自立的な外交国家としての地位を孝徳政権が再び回復しようとしていたと言うことも許されよう。
 しかし、後昆支朝にとっても王朝ルーツである百済との関係を完全に断ち切ることは、百済が存続している限り不可能であり、倭の完全な外交的自立は、そう遠くない百済の最終的な滅亡を待たねばならなかった。

蘇我朝を打倒した乙巳の変の結果、昆支王統が復活し、装いも新たに後昆支朝が開かれた。後昆支朝は大王権力の強化に努め、以後、これが不動の天皇王朝として恒久化されていく。やがて勃発した壬申の乱も、それは後昆支朝内部での皇位継承戦争にすぎなかった。
とはいえ、壬申の乱は初期後昆支朝体制のもろさを露呈する動乱ではあった。では、乱の要因を作った天智・天武の兄弟天皇の治世とはどのようなものであったのか。