歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第41回)

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」

(2)真の政変首謀者

中臣鎌子軽皇子
 内では戒厳体制の閉塞、外では百済のくびきがのしかかる中、入鹿大王体制は早くも行き詰まりを見せていた。こうした中で、小さな謀議の芽が生じた。その中心にいたのが、平安朝で栄華を築く大貴族・藤原氏の祖となる中臣鎌子(後に改名して鎌足)であった。
 『記紀』によれば、中臣氏の神話上の祖は天孫ニニギの降臨に随行した天児屋命[アマノコヤネノミコト]とされる。そうだとすると、中臣氏の祖は4世紀初頭頃の加耶系渡来集団の一員に遡る可能性がある。
 中臣とはナカツオミの縮小形で、「中」つまり神と人との間を仲介する神官職からスタートした氏族である。史実性を確認できるこの氏族の政界デビューは欽明時代、物部尾輿とともに排仏派のリーダーとして蘇我稲目と対立した中臣連鎌子(乙巳の変首謀者とは同姓同名の先祖)からであるが、そうすると早くから反蘇我派の立場にあったわけである。
 ただ、中臣氏は崇仏派の蘇我朝下でも没落することなく適応して、入鹿大王代まで生き延びており、当時からサバイバル戦術に長けた氏族でもあった。ちなみに、蘇我蝦夷と山背大兄が対立した第一次王位継承抗争では、中臣連弥気[みけ]という重臣乙巳の変首謀者・鎌子の父)が蝦夷に従い、田村皇子(舒明)を支持している。
 入鹿大王代の中臣氏の氏族長格だったのが鎌子で、彼は入鹿即位後の644年1月、神祇伯に任ぜられるも、再三固辞して就任しなかった。これはおそらく入鹿側の中臣氏取り込み工作であったろうが、すでにこの頃からクーデター計画を温めていた鎌子は乗らなかったのであろう。
 通説では、この中臣鎌子舒明天皇の子・中大兄皇子とコンビを組んで、鎌子‐中大兄ラインで乙巳の変を主導したと説明されているが、『書紀』の叙述を仔細に読むと、相当に違っている。
 鎌子が最初に接触したのは中大兄ではなく、中大兄の叔父に当たる軽皇子(後の孝徳天皇)―後述するように、彼の父は大王ではなかったから、正確には「皇子」ではない―であった。なぜなら、「中臣鎌子は以前から軽皇子と親しかった」からである。
 そこで、鎌子は軽皇子の邸宅に泊まって、内密に計画を打ち明けたようである。一方、軽皇子も鎌子の人となりを高く評価していたことから、自分の寵妃の一人を鎌子に与えて答えるのであった。鎌子が舎人を介して軽皇子に「皇子が天下の王たることを阻む者は誰もいないでしょう」と伝言したという逸話は、謀議の当初から軽皇子の大王擁立が既定路線となっていたことを示すものである。
 軽皇子の母方には蘇我氏の血が混じるが、父は押坂彦人大兄の子で舒明の異母兄・茅渟王[ちぬのおおきみ]であり、軽皇子は敏達大王直系として昆支朝正統王家に連なる人物である。そうした出自から、彼は誰よりも正統王家復活の志に燃えていたと思われ、さしあたり蘇我朝打倒後の大王にはふさわしい人物と言えた。そのうえ、これまでほとんど目立たなかった人物であり、入鹿側に謀議を察知されにくい点でも、好都合であった。
 おそらく、この頃の入鹿は当面、謀反の危険性が最も高いと彼がにらんでいた舒明の子・古人大兄を抹殺するタイミングを計ることに気を取られていたはずである。入鹿は古人大兄を山背大兄との王位継承抗争の時に隠れ蓑に利用したが、自ら大王に就いた今や、用済みとなっていたからである。従って、彼は軽皇子周辺の動きには最後まで気がついていなかったようである。そして、鎌子もこの時期にはまだ中堅の官人にすぎなかったから、入鹿大王のもともと狭い視野には入っていなかった。

中大兄皇子の役割
 正史・通説が説明する中大兄皇子乙巳の変における役割は、明らかに過大評価されている。彼は641年に死去した父・舒明天皇の葬礼の際、16歳で弔辞を読んだと記されているから、乙巳の変の645年にはせいぜい20歳くらいの青年であり、重大な謀議で中心的な役割を果たすほどの年齢ではなかった。
 実際、乙巳の変での彼の役割は入鹿暗殺の実行部隊長といったところで、自らも入鹿に直接切りつけているほどである。ただ、中大兄も舒明と正妃・宝皇女(正史上の「皇極天皇」)の間の長男として、正統王家の一員であり、蹴鞠の催しで、中大兄の脱げた靴を鎌子が拾い上げたてまつったことをきっかけに交流が始まったという有名な逸話の信憑性はともかく、鎌子の重要なオルグ対象であったことは間違いない。
 そして、中大兄は鎌子の感化を受けて次第にある種の革命家のような存在に成長していくのであるが、彼が実際に政治的な実力をつけ始めるのは、乙巳の変の結果成立した孝徳朝時代の後半期に入ってからのことと考えられる。
 このように、せいぜい政変の表の実行部隊長程度の任務にとどまった中大兄の役割が『書紀』で過大評価されるのは、彼が後に天皇天智天皇)に就いたことに加え、『書紀』の編纂準備過程に深く関与したと考えられる持統天皇が彼の娘であったことも強く影響したものであろう。

(3)政変の真相

数々の作為
 前回見たように、入鹿大王にとって死角となっていたところでクーデター謀議が着々と進められ、ついに乙巳年の645年6月12日、決行の日を迎える。
 『書紀』はこの乙巳の変について劇的な描写を交えて詳細に描いており、この変を大きな歴史的転換点として重視していることがわかる。しかし、そこには数々の作為がちりばめられている。
 まず全体構図として、「皇極天皇」が君主として主宰する三韓からの使節を迎える式典という舞台設定となっているのは、すでに述べたように、蘇我朝の存在を秘匿するために作り出された構図自体の作為である。
 もっとも、故・舒明大王の未亡人で、入鹿の大王即位までの間、臨時に大王権限代行者を務めていた宝皇女が重要な外交式典に列席していたということは十分あり得る設定であるが、それは君主としてではなく、あくまでも蘇我朝要人の一人としての列席である。
 実際には、鎌子らの計略により、道化師の示唆でいつも護身用に身につけていた刀を外したうえで一番最後に入場・着席した入鹿こそが時の君主にほかならなかったことは前述した。
 従って、中大兄らに突然切りつけられた入鹿が天皇の御座近くに這い寄り、「日嗣の位においでになるのは天子のみであります。私はいったい何の罪があってこのような目に遭うのでありましょうか。お調べくださいますよう。」と天皇に直々の裁断を懇願したとされるのももっともらしい作為である。もし入鹿が切りつけたれた時に何か独白したとすれば、「日嗣の位にあるのは私だけである。お前たちはいったい何のいわれがあって私をこのような目に遭わせるのか。調べさせるぞ。」であっただろう。
 ところで、この時、「皇極天皇」のそばに侍していた古人大兄が入鹿暗殺後に私宅に走り込み、「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。私も心が痛む。」と言って寝所に閉じこもってしまったとあるのも疑問である。
 これも先述したように、入鹿は用済みとなった古人大兄を抹殺するタイミングを計っていたはずであり、古人大兄は入鹿の大王即位後は政治活動を禁止され、私宅に軟禁されていたのではないだろうか。そうだとすると、彼は自発的に寝所に「閉じこもった」のではなく、「閉じ込められていた」のである。従って、彼が式典に列席していた可能性は乏しい。
 こうして結局、入鹿に続いて父の蝦夷も殺され、馬子大王以来、6世紀末から半世紀余りに及んだ蘇我朝は滅んだ。
 なお、蝦夷らが殺される直前に燃やしたとされる天皇記・国記とは馬子大王代に編纂された史書のことで、これを蘇我氏が所持していたのは、まさにかれらがこの時点では王家であったことの証しである。

暴君殺
 こうして中臣鎌子らが断行した入鹿暗殺とは結局のところ、専制君主を誅殺する暴君殺であった。従って、『書紀』の叙述の中で、突然の惨劇に驚いて、「これはいったいどういうことか。」と問い詰めた「皇極天皇」に対して、息子の中大兄が平伏して「鞍作は王子たちをすべて滅ぼして帝位を傾けようとしております。鞍作をもって天子に代えられましょうか。」と述べたとされる部分は当たらずとも遠からずといったところである。
 当たらずというのは、入鹿が帝位簒奪の野心を持ってはいるがまだ帝位には就いていないという前提で描写されている点である。ただ、これは蘇我朝の存在を秘匿する『書紀』の筋書きからすれば当然のことである。
 遠からずというのは、中大兄の言葉によって、この政変は単に横暴な逆臣を誅したにとどまらず、皇統をめぐる抗争、すなわち歴史ある皇室が蘇我朝に完全に取って代えられるのかという大問題に関わっていたことが示唆されている点である。
 それにしても、政変首謀者らの行動は、即位の経緯に疑義はあるにせよ、現に君主の座にある者を殺害した以上、大逆行為であった。もし失敗すれば死罪は免れないところであったし、日本には古来、暴君殺を正当化するような政治理論が存在しないことからしても、この政変に関与した者たちの行為を擁護することは難しいはずであった。
 そのため、政変後に動乱が起きることも想定し、中大兄は法興寺を押さえて砦として備える一方、蘇我氏の配下にあった漢直[あやのあたい]も族党を召集し、蝦夷を立てて挙兵しようとしたが、結局不発に終わる。
 旧軍事氏族の物部本宗家滅亡後、蘇我朝の軍部を担っていた漢直以外に誰も蘇我朝を守るために決起しようとしなかったのは、入鹿大王の人望のなさの表れであろう。彼は、すでに裸の王様だったのである。