歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第40回)

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」

正史・通説上は、“逆臣”蘇我氏を打倒した「大化の改新」の名で上代における明治維新級の革新として称賛されてきた政変は、果たして真に「改新」の名に値するような革命だったのであろうか。

(1)政変までの経緯

戒厳体制
 643年10月に成立した蘇我入鹿大王体制は、同11月に山背大兄の上宮王家を打倒して主要な政敵を排除したかのように見えたが、政情は安定しなかった。
 そもそも祖父・馬子は昆支朝の血を引く姪と結婚して共同女王とし、共治体制を採用して王位簒奪者のイメージを払拭することに腐心したのに対して、入鹿は単純に単独即位を強行したため、王位僭称者のイメージが前面に出てしまう結果となった。
 そのために、山背大兄でなくとも、“君大郎”入鹿への反発は少なくなく、非業の死を遂げた上宮王家への同情も高まるようになったに違いない。民衆の反感も強く、『書紀』によると、政情を風刺したり、時勢の悪化を予測するような童謡も流行した。
 規律の乱れも目立ち、『書紀』は東国の富士川のほとりの人、大生部多[おおふべのおお]という者が「常世の虫」なる虫を祭ると富と長寿が得られると、巫女たちとともに宣伝し、人々に家や財産を投げ出させ、歌い舞わせるという詐欺行為が地方から都にも広がり、大規模な被害を出したことを記す。これはおそらく記録に残る最古の“投資詐欺事件”ではないだろうか。
 こうした不人気と不穏な情勢に対応すべく、入鹿政権は厳重な戒厳体制を敷いた。『書紀』によると、宮殿の外に砦の柵を囲い、門の脇に武器庫を設けたほか、防火設備を整備した。また畝傍山の東にも宮を建て、池を掘って砦とし、ここにも武器庫を置いて矢を貯えた。また、こうした王宮を東国の兵士や配下の漢直[あやのあたい]の軍団などに厳重に警備させた。
 入鹿の大王即位を否定する通説にあっては、こうした厳重な警備体制をもって、唐の侵略に備えたものとみなす向きもあるが、対唐防衛が目的であれば、後に天智天皇がそうしたように、何よりもまず唐軍の上陸地点となる九州北部の防備を固めるはずであるから、王都の厳重警備はあくまでも謀反の動きに備えた戒厳体制であったと見るべきであろう。

百済のくびき
 蘇我朝の対外関係は、馬子時代と蝦夷・入鹿時代とでは大きな違いがある。
 馬子時代は、対外関係はおおむね対隋外交を軸として展開されていた。しかし、隋は高句麗と険悪な関係となり、三次にわたり高句麗征討を企てるが失敗して国力を消耗した末、618年に煬帝が殺害されて滅亡、唐に取って代わる。馬子政権は新生・唐に遣使しなかったようだが、蝦夷が全権を握る舒明時代に入って630年にようやく第一回遣唐使が送られて、翌年には唐からの答礼使を迎えている。ここでも冊封を受けない中国外交という馬子時代の基本方針は維持されている。
 しかし、これ以降、対唐外交は途絶えてしまい、第二回遣唐使は「大化の改新」後の653年まで20年以上も中断したままであった。
 一方、朝鮮半島との関わりでは対新羅関係がポイントとなる。馬子時代の対新羅関係は微妙で、600年には新羅任那が戦ったので、任那を援助するため、境部臣(摩理勢)を大将軍として一万余の兵を送り、五つの城を攻略すると、新羅王は白旗をあげて降伏し、六つの城を割譲したとされる。
 これに対応する記事は朝鮮側正史の『三国史記』には見えないが、正史を補完する『三国遺事』には真平王(在位579年‐632年)の時代に、倭軍が侵入したとの伝承や歌謡の断片が記録されていることから、史実とみなす見解も多い。
 ただ、任那加耶)はすでに6世紀半ばすぎまでにほぼ全域が新羅に併合されていたので、新羅任那間の大規模な戦争は考えにくく、むしろ新羅との関係がいよいよ悪化してきた旧同盟国・百済との関わりにおいての新羅出兵であったかもしれない。
 この600年の新羅戦で大勝利を収めたとしながら、602年には故・用明大王の子・来目皇子を将軍として再度新羅征討を企てるが、今度は皇子が筑紫で急死したため取り止めとなった。
 治世前半のこうした新羅敵視策に対して、後半期の治世18年になると、新羅の使臣を迎え、盛大に修好している。おそらく、これはこの頃、新羅が隋と連携していたため、対隋関係を重視する対外政策の結果として、対新羅関係も友好に転じたものであろう。
 しかし、治世末期の31年になると、再び新羅征討の話が出て、数万の兵を送ったことになっている。出兵の真偽は別として、この頃には隋が倒れ、唐に取って代わっていたことから、対新羅関係も再び悪化したのかもしれない。
 このように、馬子時代には対隋外交を軸に展開されていた対外関係が、蝦夷・入鹿時代になると、改めて旧同盟国・百済との関係が軸になってくる。これは、第一回遣唐使の翌年、舒明3年(631年)に百済が王族・ 豊璋百済最後の王となる義慈王の子)を人質として派遣してきたことによるものであろう。
 この頃、半島では高句麗と歴史的な和解を果たした百済新羅に対抗する展開となっていた中で、百済は倭との同盟を改めて強化し、倭が新羅に接近することのないように牽制するための外交工作として、王族を派遣してきたものと考えられる。
 結局、豊璋は「大化の改新」をまたいで、故国百済がいったん滅亡した後の662年に帰還するまで、30年以上も倭に滞在して、百済の利害を代弁した。豊璋は5世紀の昆支ほどの重みはないとしても、百済大使のような立場にあったと見てよかろう。
 舒明時代には、百済宮・百済大寺といった百済にちなむ大型建造物が相次いで建設され、舒明死去後に遺体を安置した殯宮さえ百済大殯(くだらのおおもがり)と名づけられるなど、百済色がとみに強くなるのは、蘇我氏の出自が百済人であったことを超えて、百済が倭を外交的に統制する「百済のくびき」が極めて強まったことの現れである。
 こうした「百済のくびき」は蝦夷・入鹿時代の対外政策を制約し、新羅との関係を再び険悪なものとするとともに、やがて新羅と結んだ唐との関係をも途絶させ、敵対する結果となったのである。