歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第39回)

第八章 蘇我朝の五十年

(5)王位継承抗争と蘇我入鹿

後継問題の発端
 蘇我馬子大王の期待の星・善徳太子=聖徳太子は621年、父王より先に世を去ってしまう。これで馬子の目算は大きく狂うことになり、やがて後継問題をめぐる深刻な内紛の発端ともなった。
 その理由として、馬子が長生しすぎたこともある。彼は太子が死去した時点ですでに治世29年に達しており、敏達天皇の大臣だった時代から通算すれば50年以上に及ぶ政治歴になるから、すでに80歳を超えていた可能性がある。とすると、574年生まれとされる太子の実年齢ももう一回り高く、死去時には古代の上流階級としては平均寿命を若干上回る50代後半に達していたのではないか。
 ともあれ『書紀』によると、太子が死去した時、人々は身分の上下を超えて悲嘆にくれ、高句麗に帰国していた太子の師・恵慈などは太子の後を追って来年の太子の命日に自らも死にたいと慨嘆し、本当にその日に死んだなどと現実離れした大仰な追悼記事を載せている。
 しかし、太子の死を最も悲嘆したのは馬子老大王自身であったろう。彼には他に少なくとも二人の息子があったが、父の評価においては善徳と比ぶべくもなかったに違いない。
 『書紀』がこうした父王の主観的評価を超えて、身分を問わず崇敬された聖人・聖徳太子というモデルを作り上げたのは、「蘇我朝」の存在を秘匿し、表面上は蘇我氏を皇室に背いた逆臣として描きながらも、特に馬子大王の業績を再評価し、皇統に編入された「聖徳太子」を介して間接的な形で蘇我氏の名誉回復を暗黙裡に図ろうとしたことの反映と考えられる。
 このような政治的狙いが込められた聖徳太子信仰は、おそらく7世紀後葉の天武・持統天皇時代(特に持統天皇時代)に朝廷主導で始まり、内容が希薄な『書紀』の聖徳太子に関する叙述を補足する史料としてよく参照される太子の伝記『上宮記』『法王帝説』や法隆寺金堂薬師如来像光背銘、同釈迦三尊像光背銘、伊予国湯岡碑文、天寿国繍帳銘などの銘文・碑文群も、この時代に集中的に造作されたものと推定されるが、このように権力主導で聖徳太子信仰が広められた理由・経緯については最終章で論ずる。
 さて、こうして期待の星を失った馬子大王は太子より5年ほど余命を保ち、626年に没した。治世34年、おそらく古代人としては怪物的に異例の90歳近い長命であったろう。
 『書紀』は馬子について「性格は武略備わり、政務にもすぐれ、仏法を敬った」云々と天皇紀並みの称賛的な人物評を載せているが、このことも彼が単なる大臣を超えて、実際には君主の座にあったことを暗示しているように思われる。
 また『書紀』は馬子の墓を「桃原墓」と記すが、これは盛り土が失われて巨大な横穴式石室が露出していることで有名な石舞台古墳に比定されている。この古墳の石室の全長は約19メートルと全国でも有数の大きさであり、規模から見ても、古墳が小規模化する古墳時代後期のものとしては大王墓級と言える。この点にも、彼の本当の地位が象徴されていよう。
 馬子大王の死によって再び未亡人となった推古女王は結果的に単独の君主として残り、その限りでは彼女を畿内王権最初の単独女王とみなしても誤りではないが、あくまでも結果的なものであり、ほどなくして彼女自身も死去するまでの暫定的な単独統治であったにすぎなかったと考えられる。

第一次王位継承抗争
 馬子大王は善徳太子死去後、新たな後継指名をする気力も失ったまま没したようで、このことが二次にわたる深刻な王位継承抗争の直接的なきっかけとなった。
 馬子の元来のプランは、当然ながら自慢のワカミタフリ=善徳太子に王位を順当に継承させるというもので、そのために治世15年(607年)には、太子とその子孫の生活費をまかなうべく壬生部[みぶべ]を設置している。
 さらにその5年後には、実姉で欽明妃にして妻・推古女王の母でもあった堅塩媛を欽明陵に改葬する大式典を挙行する。これは本来正妃ではなかった堅塩媛を欽明陵に合葬したのであるが、単なる合葬ではなく、石室の奥の主被葬者の位置に堅塩媛の石棺を安置し、欽明の石棺をその手前に移動するという入替葬であった事実が近年、真の欽明陵に比定される見瀬丸山古墳の調査で確認されている。
 要するに、欽明陵を事実上の“堅塩媛陵”にすり替えてしまおうという図々しくも大胆な策であった。その狙いは、もちろん「蘇我朝」の正式な樹立宣言である。
 この企ては善徳太子の死で挫折を余儀なくされるが、馬子のプランを生かすとすれば、善徳太子の子・山背大兄王を王位に就けることであった。
 この人の母は、聖徳太子の伝記『上宮記』『法王帝説』によると、馬子の娘・刀自古郎女[とじこのいらつめ]というが、これらの伝記は、先述したように聖徳太子伝説を広めるため政策的に造作されたものであり、信用し難い。
 一方、『書紀』は聖徳太子の妃として、推古天皇と前夫・敏達天皇との間の娘・莵道貝蛸皇女(別名・莵道磯貝皇女)の名を挙げながら、山背大兄の実母の名を黙している。しかし、莵道(宇治)は山背国内の一地域であるから、山背大兄の名は母の名にちなんだものと推定され、山背大兄の実母は莵道貝蛸、またの名は莵道磯貝皇女とみてよいと考える。
 こうした出自を持つ山背大兄が大王に就けば、実子のなかった馬子大王・推古女王夫妻にとって共通の孫に当たるから、後継にはふさわしいはずであった。
 ところが、馬子大王亡き後の推古女王はそうは考えなかったようである。彼女はやはり獲加多支鹵大王=欽明の娘という意識が強かったらしく、偉大な父王の直系正統王家の復活が念頭にあった。
 そこで、推古は死去の直前、馬子に暗殺された故・押坂彦人大兄の子で、敏達大王の孫にも当たる田村皇子―この時点で昆支朝は廃されていたから、彼は正確には「皇子」ではない―を病床に呼び出し、「天下を治めることは大任である。私はお前を重く見てきた。それゆえ行動を慎み、物事を明らかに見るように。」と事実上王位を委ねるかに取れる遺言を下した。
 その一方で山背大兄をも呼び出し、「お前はまだ未熟であるから、心中望むところがらあっても口にせず、群臣に従うように。」と自重を促す遺言を下した。
 こうして、推古も馬子大王の死去から2年後の628年に没するのであるが、女王の遺言はややあいまいで、解釈の余地を残したことから、田村皇子後継が女王の遺志であるとして既成事実化を図る馬子のもう一人の息子・蝦夷と、女王の遺言を都合よく解釈して自分に大命が下ったと反論・抗議する山背大兄の間で争いが生ずることになった。叔父と甥の争いである。
 実のところ、蝦夷も馬子大王の王子として、王位継承権がなくはなかったが、父王から後継指名を受けていなかったため、自ら王位を請求することはあえて避け、田村皇子を推していたようである。彼が山背大兄に否定的なのは、兄・善徳太子の子で、雄弁家でもあったらしい山背大兄が王位を継ぐことになれば、自らの立場が弱くなるので、父・彦人大兄に似て影の薄い田村皇子を王位に就け、その下で宰相として実権を握るほうが得策と計算していたためであろう。そして、彼のバックには群臣の大半がついていた。
 一方、山背大兄の後ろ盾は、馬子の実弟に当たる長老・境部摩理勢[さかいべのまりせ]と二、三の王族くらいで、支持者が少なかった。
 この争いは、最終的に蝦夷と摩理勢の抗争に転化した末、蝦夷が摩理勢一族を武力で滅ぼして決着が着き、629年に田村皇子が即位する。これが、正史上の第34代舒明天皇である。

第二次王位継承抗争
 第一次王位継承抗争の後、蘇我蝦夷によって擁立された舒明天皇(以下、便宜上「舒明大王」または単に「舒明」という)は、蝦夷の目論見どおり、彼の傀儡となったので、641年まで続く舒明時代は蝦夷が全権大臣として独裁した。よって、形の上では再び昆支朝正統王家が復活したように見えながら、実質上は蘇我朝」の形を変えた継続であった。
 こうした傀儡体制は、ちょうど蝦夷の父・馬子が自ら大王に就く以前、大臣として独裁した崇峻大王時代にならったものであった。この間、舒明は政治の実権をすべて蝦夷に握られ、自らは病弱であったのか、都を離れ、たびたび有馬や伊予の湯に行幸するような有様であった。やがて641年に舒明が死去すると、再び後継問題がよりねじれた形で持ち上がってくる。
 正史上は、舒明死去後、ほとんど間を置かずに正妃の宝皇女が即位したことになっている。これが正史上二人目の女帝とされる第35代皇極天皇である。しかしこの時代に、大王の没後当然のごとくに配偶者たる正妃―しかも、宝皇女は推古と異なり、共同女王の地位にもなかった―が大王に昇格するということは考えにくく、この筋書きには疑問がある。舒明にはこの時点で、馬子大王の娘・法提郎媛[ほてのいらつめ]を母とする古人大兄皇子[ふるひとのおおえのみこ]という大兄称号を持つ長男があったことからしても、「皇極天皇」には疑問が残るのである。
 この頃になると、蝦夷の息子で野心家の入鹿が台頭し、半ば公然と王位を狙っていたので、おそらく蘇我父子は故・舒明の正妃・宝皇女を大王権限代行者のような地位に立てながら、入鹿が王冠を手にするタイミングをうかがっていたものと考えられる。従って、宝皇女は大王ではなく、後代の皇后称制のような形で臨時に大王の職務を代行したにすぎなかったのであろう。
 一方、『書紀』は明確に記していないが、舒明死後、再び山背大兄王が王位を請求し始めた可能性が高い。というのも、彼は舒明即位前の第一次王位継承抗争の際、推古女王から、蝦夷叔父が常に自分のことを心配し、「いつかはきっと皇位が山背に行くのではないか」と言っていたと聞いたという新事実を出して、自説を補強していたからである。
 これに対して、入鹿側は表向き舒明の長男・古人大兄を推すポーズを見せて対抗しながら、実は自身が王位を狙っていたのである。そして、そのチャンスがめぐってきた。
 『書紀』によると、643年9月6日、まず蘇我父子は故・舒明大王を押坂陵に移葬する(押坂は舒明の父・押坂彦人大兄ゆかりの地)。そのちょうど一月後の10月6日、蝦夷は病気を理由に登朝せず、秘かに紫冠を入鹿に授けて大臣の位になぞらえたという。
 この叙述では、蝦夷が単に大臣の位を入鹿に僭称させただけであるが、真実は、この時点で入鹿は一方的に大王即位を宣言したものと推定される。そのことは、『書紀』が注記で、「蘇我臣入鹿は、上宮の王たちの威名が天下に上ることを忌んで、臣下の分を越えて勝手に自分を君主になぞらえようとした」とあることからも、裏づけられる。
 この後、正史上は11月1日、入鹿が山背大兄の根拠・斑鳩に軍を差し向けて「急襲」をしかけ、大兄の上宮王家一族を滅亡させたことになっている。これが、聖人・聖徳太子の子孫を滅亡に追い込んだ入鹿最大の罪状とされているものである。
 しかし、先述したような経緯からとらえ直すと、これは入鹿による「急襲」ではなく、去る10月6日に入鹿が大王即位を強行したことに対して山背大兄側が反発し、本拠地の斑鳩宮に立てこもって抵抗したことから、これを謀反とみなした入鹿大王側が討伐軍を差し向けたものと見たほうが自然である。
 山背大兄は父の善徳=聖徳太子との関わりから同様に聖人視されることも多いが、実際は入鹿にも劣らぬ野心家であり、自らの王位継承のために雄弁に自己を弁護する人でもあった。
 ただ、彼は入鹿よりも優先的な王位継承権を有していながら、おそらく群臣の間で人望がなく、強力な支持基盤も、入鹿のような武力も欠いていた。『書紀』は、彼が入鹿の軍勢に攻撃され、生駒山に逃げ込んだ際、側近から東国の壬生の民を徴発して反撃の兵を挙げるよう進言されたの対して、「勝ち目はあるが、自分は十年間は人民を労務に使役しないと決めている。後世の人民から、自分についたために父母を亡くしたと言われたくないのだ」と言って断り、山を降りて斑鳩寺に入り、兵に攻囲される中、一族とともに自殺したと記している。
 山背大兄がこのように戦わずして一族心中の道を選んだのは、彼が雄弁に正当化したように人民を愛する聖人だったからではなく、武力では入鹿に対して勝ち目はないと観念したためであるにすぎなかったであろう。

入鹿大王体制
 蘇我入鹿は、舒明大王死去後、自ら大王即位を強行したと述べたが、これはもちろん正史・通説とは全く違っている。正史・通説では、入鹿はあくまでも天皇をしのごうとした横暴な逆臣にすぎず、自ら王冠を狙っていたかもしれないが、その野望を「大化の改新」につながる「乙巳の変」が見事に未然防止したという筋書きになっているからである。しかし、この筋書きは『書紀』の叙述自体によって反証することができる。
 まず何よりも、前回引いた注記が、入鹿の君主僭称を明言していることである。もっとも、通説は、本文にこのような記述は見えず、むしろ10月12日の記事では、「蘇我臣入鹿は、独断で上宮の王たちを廃して、古人大兄を天皇にしようと企てた」とあるので、この時点では入鹿はまだ自ら君主を僭称していなかったとする。
 しかし、単にそれだけのことなら、古人大兄は先帝・舒明の長男であるので、天皇に擁立しても重大な問題はないはずであって、入鹿を誅殺した「乙巳の変」の大義名分は失われることになりかねない。
 第二に、その「乙巳の変」の後、蘇我氏とも同族の高向臣国押[たかむこのおみくにおし]という人が漏らした「われら(同族)が君大郎(入鹿)の仇を打つために戦えば、殺されるだろう」という言葉からも、入鹿が「君大郎」という一種の君号を名乗っていたことがわかる。これはちょうど祖父・馬子大王が「アメタラシヒコ」をを称したのと同様、自らの王権を正当化するために創案した新称号であり、祖父と比べるとより中国風の称号である点に違いがあるだけである。―ただし、「君大郎」は君号というより長男世子への敬称であるが、これは入鹿即位の時点で存命中だった前全権大臣の父・蝦夷を敬重し、直接的な君号を避けたのかもしれない。
 第三に、入鹿が君主の地位にあったことは、最終的に彼が暗殺されることになる「乙巳の変」の舞台となった外交式典(三韓からの使臣を迎える式典)において、次のように入鹿が天皇よりも遅く、最後に入場していることからも裏づけられる。もしも入鹿が横暴であれ臣下にすぎないならば、先に入場して天皇(この場合は皇極)の入場を待つはずなのである。

皇極四年六月十二日、天皇大極殿にお出ましになった。古人大兄が傍らに侍した。中臣鎌子連は、入鹿が用心深い性格で、昼夜剣を帯びているのを知っていたため、俳優[わざおき:道化師]に言いつけ、騙して剣を解かせた。入鹿は笑って剣を解いて中に入り、着席した。

 さらに付言すれば、古代・中世の君主はお抱えの道化師を持つ習慣が広く見られたところ、上記の引用箇所から、入鹿にも専従道化師がいたらしいことは、まさに彼自身が君主の座にあったことの傍証ともなる。
 第四に、上宮王家一族討伐後、蘇我父子がその邸宅を宮門[みかど]、男女の子たちを王子[みこ]と呼ばせたとされることである。これに先立って、父子はすでに寿墓を双墓[ならびのはか](大小二つの円墳を連接した瓢型古墳)の形で築造し、蝦夷のものを大陵[おおみささぎ]、入鹿のものを小陵[こみささぎ]と呼ばせていた。このことによって、直接王位には上れなかった父・蝦夷まで遡って大王級の扱いをしようとしたものと考えられる。
 こうした王朝仕立ては、すでに蘇我朝が馬子時代から成立していたと考える説からすれば別段不思議はないが、『書紀』もこの時点では事実上蘇我朝の成立を示唆せざるを得なかったものであろう。
 かくして馬子大王が望んでいた本格的な「蘇我王朝」が、馬子の予期とは異なる蝦夷‐入鹿ラインでいよいよ開始されたのである。
 『書紀』は、公式にはこうした蘇我朝の成立という真実をどこまでも隠し通そうとしている。しかし、『書紀』の編者は注記を含め、断片的な形で真実をほのめかすことを通じて、学問的な良心の声に最小限答えようとしたのであろう。それを探り当てることは、後世の人間に託された任務である。

昆支朝開祖・昆支大王代の5世紀後葉、亡国の危機にあった百済から呼び寄せられて昆支大王の宰相となった木刕満致を祖とする蘇我氏は、6世紀末に王権を簒奪し、蘇我朝を建てた。この蘇我朝の五十余年、中でもその過半を占めた馬子大王時代は、畿内王権が朝廷として整備され、対外的にも本格的な外交デビューを果たした革新の時代でもあった。
蘇我朝開祖・馬子没後の王位継承抗争を経て、孫・入鹿の代になり、いよいよ本格的な「蘇我王朝」の到来かに見えたが、水面下では別の動きが始まっていた。その動きとは何か。