歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第37回)

第八章 「蘇我朝」の五十年

(3)蘇我革命体制

蘇我馬子の即位
 蘇我馬子は崇峻大王を傀儡として擁立した時点で、事実上の大王に就いたも同然であった。とりわけ法興寺のような大規模宗教施設の創建は古代国家においては王の権力を象徴する事業であったから、崇峻でなく馬子がこれを主導したということは、同時代人の目にはもはや馬子が大王の座にあるも同然と映ったろう。そしてついに大王暗殺と来れば、いよいよ馬子自身が王位に就くものと誰もが固唾を呑んで見守っていたに違いない。
 しかし、正史は崇峻の次の天皇(大王)を女性の豊御食炊屋姫尊[とよみけかしきやひめのみこと]、すなわち第33代推古天皇に当て、教科書的には彼女が「初の女性天皇」とされてきた。
 この豊御食炊屋姫は欽明と蘇我稲目の娘・堅塩媛との間の娘(諱は額田部皇女)で、馬子にとっては姪に当たる。彼女は初め、異母兄・敏達大王の正妃(後妻)となるが、死別して未亡人となっていた。
 豊御食炊屋姫が馬子派として叔父の謀略にも関与していたことは、馬子が穴穂部皇子らを暗殺した時に彼女が馬子の命令を詔の形式で暗殺実行犯らに伝える大王権限代行者のような役割を果たしたほか、崇峻擁立の際にも群臣らとともに泊瀬部皇子に大王即位を勧める役割を果たしていることから窺える。
 とはいえ、6世紀代の単独女王は百済系の昆支朝にとっては時期尚早で受け入れ難いものであったろう。実際、百済は滅亡まで女王を一人も輩出しなかったし、この点は百済王室と同じく扶余族系国家・高句麗も同様であった(新羅は3人の単独女王を輩出したが、それも7世紀半ば以降のことである)。扶余族は相当に強い男性優位の観念を持っていたと考えられ、このことは倭の昆支朝にもあてはまったはずである。
 そのうえ、「推古女帝」の存在を否定する裏づけとなり得る史料がある。それが『隋書』倭国伝に記された倭の600年遣使記事である。それによると、この時、隋に遣使してきた倭王の姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌と号したという。そして王の妻は雞彌と称し、後宮に女六、七百人があったとも記す。
 ここから直ちにわかることは、600年当時の倭王は妻と数百人の女性を擁する後宮を持つ男性だったということである。600年は『書紀』の編年では推古8年に当たるから、時の倭王は女性だったはずで、『隋書』の記述とは矛盾する。ところが、『書紀』にはこの600年遣隋使のことが全く記録されておらず、初の遣隋使は607年とされていることから、『書紀』が600年遣使の記事を落としたことの意味が問われる。
 この問題については種々の見解があるが、「推古女王」の実在を前提としながら『隋書』の記述との整合性を確保する最も現実的な考えは、中国は元来女王に否定的であり―後の唐代に出た武則天が史上唯一の女帝―、女王名義の遣使では対等な存在として認知されない恐れがあることから―後述するように、この時の倭は隋との「対等外交」を目指していた―、あえて男王名義で遣使したというものである。そうすると『隋書』の記述と矛盾することになるため、『書紀』では600年遣使を隠したと解釈できる。
 これも一つの見解であろうが、先述したように、女王に否定的であるのは当時の倭王権も同様であったという点は見落とせないであろう。であればこそ、『書紀』は「推古天皇」の単独即位を記す一方で、国政は甥で女婿でもある聖徳太子を摂政としてすべて委任したとし、推古を統治しない象徴的女帝に格下げしてしまうのである。ところが、推古紀を見ると、推古自身も相当に国政に関与しており、むしろ聖徳太子の事績のほうが曖昧なくらいであるので、ここには『書紀』の叙述内部に矛盾が認められるのである。
 結局、蘇我馬子は崇峻暗殺後、自らが王位に就いたと推定するほうが簡明で無理なく説明がつく。そういう観点から改めて先の『隋書』の記述をとらえ直したときに注目されるのは、倭王が「阿輩雞彌」[オホ(オ)キミ]と並べて称した「阿毎多利思比孤」[アメタリ(ラ)シヒコ]という称号である。
 隋側ではこれを包括して倭王の姓名と認識したようだが、実際にはアメタラシヒコ(天足彦)という新たな王号と考えられる。これはおそらく、王位簒奪者・馬子が自らの王権を正当化するために、従来からのオオキミ(大王)に加えて、新たに創始した王号であろう。
 ちなみに、タラシの「タラ」とは百済=クダラの「ダラ(タラ)」と同語源で、百済語で邑城を意味するという説によれば、「アメタラシヒコ」とは「天の邑城の日子」といった趣旨の、まさに中国皇帝の「天子」に匹敵するような意味を帯びることになり、ここに対等外交の狙いが強く反映されていると読み取ることもできる。

推古共治女王
 先の『隋書』の記述でもう一つ注目したいのは、王の妻が「雞彌」[キミ]と号するとされる点である。王がオオキミ、王の妻もキミという君号を称したということは、王の妻が単なる王妃ではなく、自身も女王であったことを示唆している。
 ここから、豊御食炊屋姫尊=推古は馬子大王の妻であると同時に、自らも女王であったのではないかとの推定が成り立つ。つまり夫・馬子との共治女王である。もっとも、オオキミとキミという組み合わせからして、夫たるオオキミに対して妻のキミが劣位にあったとすれば、推古は完全に対等な共治女王ではなく、副王のような立場であったかもしれない。
 いずれにせよ、馬子大王としては、露骨な王位簒奪者のイメージを払拭し、形式上は昆支朝との継承関係を担保しつつ、自らの政権の正当性を主張するためにも、偉大な欽明の娘で、かつ蘇我氏の血を引く姪にも当たる豊御食炊屋姫尊との共同統治を必要としていた。 
 そのために、馬子は彼女と結婚したうえで、大王と女王として共同即位したと考えられるのである。この点、古代においては叔父と姪の婚姻は何らタブーではなかったうえに、豊御食炊屋姫尊も異母兄・敏達大王の未亡人として当時は独身であったから、二人の結婚に障害はなかった。
 こうして崇峻大王暗殺後の新体制は、蘇我馬子大王と推古女王夫妻による共同統治体制となったと考えられるのである。従って、これにより昆支大王以来、6代およそ120年にわたって続いてきた昆支朝はひとまず途絶し、実質的な「蘇我朝」が出現したわけである。
 しかし、初代神武天皇以来の連続的皇統という筋書きに立つ『記紀』は、当然にもこの「蘇我朝」の成立を完全に秘匿した。その結果、共治女王たる推古だけが―中国史書や『書紀』自体の叙述とも矛盾を含む形で―単独女帝として提示されることになったのである。

革新的な施策
 馬子大王の政権は、従来の昆支朝の下で推進されてきた領土国家化を土台としながら、いくつもの点で昆支朝が実行することのなかった―できなかった―革新的な施策にも踏み出した一種の革命体制であった。
 その施策とは第一に、仏教を国教化したことである。排仏派の巨頭・物部氏を打倒したことで仏教普及への障害は除去されていたから、馬子政権は596年に落成した法興寺をはじめ、四天王寺法隆寺など多数の仏教寺院の建立を推進し、百済高句麗から多くの僧を招聘して、仏教を国の精神的支柱にすえることができた。
 第二に、昆支朝開祖・昆支大王が「武」名義で478年、当時の南朝宋に一度だけ遣使して以来、途絶していた中国外交をおよそ120年ぶりに再開し、589年以来南北朝を統一していた隋との国交を開いたことである。
 ただし、一足先に対隋外交を開き、冊封を受けていた百済とは異なり、冊封を受けない野心的な対等外交を目指したことが革新的な点であった。これは607年の第2回遣隋使に持参させ、時の皇帝・煬帝の不興を買った「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる“無礼な”国書にも如実に示されているところである。こうした冊封によらない対等外交は、蘇我朝が滅んだ後も、古代日本の中国外交の基本方針として定着していく。
 第三に、冠位制度を創始し(冠位十二階)、後の律令制につながる古代官僚制度の基礎を築いたことである。
 従来の昆支朝は百済系であったにもかかわらず、百済式の律令的官僚制度を移入することはなかった。それだけ倭では国より氏に奉仕する氏族制が強固であったためで、官僚制度の導入に消極的であった昆支朝歴代大王はむしろ現実的であったのであるが、馬子政権はこうした後進的な現実を克服し、隋から対等な国家として認知されるためにも、冠位制度の採用に踏み切ったのである。
 この点、『書紀』では冠位十二階の制定を603年とするが、『隋書』では600年遣使の項で十二等級の冠位制度の存在に言及されていることから、冠位制度は600年以前の早い段階で導入済みであったようである。
 ちなみに、蘇我氏に対しては冠位が与えられておらず、蘇我氏への冠位授与は蘇我本宗家を滅亡させたいわゆる「大化の改新」の後であるのは、「改新」以前の蘇我氏が単なる臣下でなく、まさに王家そのものであった事実を暗示している。
 ところで、聖徳太子の自作とされる有名な「十七条憲法」は今日、後世の造作とみなす見解が強いが、内容的には官人に対する執務指針の訓示であるから、冠位制度の制定と合わせて、そうした指針が通達された可能性は十分にあるだろう。
 第四に、初めて歴史書を編纂したことである。この点、『書紀』は推古28年に、聖徳太子と馬子が天皇記・国記、臣・連・伴造・国造などその他多くの部民・公民らの本記を記録したことを記す。要するに国史のほか、大王・豪族の家伝にも及ぶ大規模な編纂事業である。
 馬子大王体制は一種の革命体制であったから、歴史にも手を加え、新しい歴史観の下、体制の正当性と永続性を担保しようとしていたことは想像に難くない。そこで、おそらくは『記紀』に先駆けた史上初の歴史書編纂に着手したものであろう。
 ただし、このうち肝心な天皇記(大王記)は後の「大化の改新」の際、蘇我氏によって焼却されてしまい、国記だけは一人の文書官の手で火中から拾い出されて残ったとされるから、この国記はその後、『記紀』の基礎史料の一つとして参照された可能性はあろう。
 第五に―これには多くの反論が予想されるが―、初めて王都を「ヤマト」と名づけたことである。
 この点については、3世紀代から「ヤマト王権」が成立していたとする近年の多数説からすれば、道断の邪説と非難されるかもしれない。しかし、倭国の王都がヤマトであることが史料的に裏づけられるのは、先の『隋書』における「邪靡堆に都する、すなわち魏志にいわゆる邪馬台なり」という記述が初めてなのである。同時に、これは例の邪馬台国畿内説の初出原典と言ってもよい記述となっている。
 この部分は倭の600年遣隋使から隋側が聴取したところを記録したものに違いなく、要するに当時の馬子政権の公式説明をベースとしているわけである。この点、歴史書編纂にも力を入れた馬子大王のことであるから、おそらく邪馬台国の故事も意識しており、隋との対等外交を目指す狙いからも、「歴史の古さ」をアピールするため、中国側史書にも登場する邪馬台国畿内王権を直結させたうえ、邪馬台にちなんで王都を「ヤマト」と名づけたのではなかろうか。
 実際、畿内にはヤマトという地名は本来存在しないのであって、このことは例えば『書紀』の神武紀で神武天皇が征服を試みている畿内の原地名に「ヤマト」は見当たらないことからもわかるのである。
 第六に、初めて王宮を朝廷の形式に造営したことである。これは建築史上のみならず、政治史的にも重要な革新であった。
 従来の王宮は単に大王の居館にすぎなかったと見られるが、馬子大王体制にとっての王宮は、隋からの外交使節を迎え入れるためにも、中国風の殿舎を伴った朝廷(朝庭)でなければならなかった。そうした朝庭型王宮の初めてのものが小墾田宮[おはりだのみや]であり、603年に稲目以来蘇我氏の邸宅であったものを王宮として造営し直し、608年には隋の使者を迎えている。
 この小墾田宮は残念ながら未発見であるが、『書紀』の記述から後の朝堂院の原型と言えるような構造をしていたと推定されている。このような本格的王宮の造営は、やがて内政面でも朝廷の制度が整備されていく土台ともなったであろう。
 如上のような革新的な施策を通じて、馬子大王体制は畿内王権を単なる日本列島の閉鎖的領土国家にとどまらない、“ヤマトに都する”自立した外交国家として離陸させることに成功したのであった。