歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第35回)

第八章 「蘇我朝」の五十年

6世紀末から7世紀前半までの畿内王権で独裁者となる蘇我氏とはどのような氏族であったのか。また、正史上「蘇我氏の専横」と呼ばれる時代、蘇我氏はあくまでも臣下として独裁したのか、それとも自ら王位簒奪者となったのか。

(1)蘇我氏の出自

虚構の系図
 本章の主人公となる蘇我氏が実質的に政治の表舞台に登場してくるのは、前章でも言及したように、獲加多支鹵大王=欽明が親政を開始した後に、宰相格の大臣として大王を支え、2人の娘を大王に嫁がせて有力な外戚となった稲目の代からである。このように急速に台頭した蘇我氏の出自について、『書紀』は明確に記していないため、蘇我氏は謎に包まれた氏族とも言われてきた。
 もっとも、『記』によると、蘇我氏は波多氏、許勢氏、平群氏、木氏、葛城氏らとともに第8代考元天皇の曾孫・建内宿禰[たけうちのすくね]を共通祖先とし、その子・蘇賀石河宿禰が直接の祖になるとされる。この点、蘇我氏の公式系譜である『蘇我石川両氏系図』も、同様に武内(建内)宿禰を遠祖とする次のような系図を掲げている。

武内宿禰蘇我石川宿禰━満智━韓子━高麗━稲目━馬子(下略)

 しかし、今日、このようなもっともらしい系譜をそのまま信じる学説はほとんどない。とりわけ遠祖とされる武内宿禰は景行紀から応神紀まで200年以上も生きて活躍するという全く伝承上の人物であるうえに、この人物を天皇系譜に組み入れたことは政治的意図に基づく作為と言ってよい。
 ただ、作為的とはいえ、上掲系図から読み取れるのは、韓子とか高麗のように渡来系を思わせる名前が見えることに照らし、この一族の祖はやはり朝鮮半島からの渡来人ではないかということである。
 しかし通説によると、蘇我氏は渡来人集団を統括する役職に就いていたが、自身は渡来系でなく、ヤマトの在地土着豪族であるとされる。果たして、こうした理解に疑問の余地はないのであろうか。

木満致起源説再考
 門脇禎二氏は、かつて蘇我氏の公式系図上に見える蘇我満智をもって百済重臣木満致(木刕満致)に当て、蘇我氏はこの木満致が渡来して興した一族であるとする大胆な説を提起した。
 この木刕満致は、百済八大姓のうち木氏と刕氏の複姓氏族であり、『三国史記』では475年の漢山陥落後に熊津に南下・亡命する文周王に随行したことが記録されているが、『書紀』の応神紀25年条にも応神天皇百済から呼び寄せたとの記事がある。
 ただ、記事の人物紹介の中で、直支王(百済第18代腆支王)の子・久爾辛の治世の時、年若い王に代わって国政を握り、王母と通じて無礼が多かったとあるのは、年代的なズレがあり、信用できない。木刕満致は5世紀後葉の文周王時代に登場する以上、5世紀前葉の久爾辛時代に国政を専行したとは考え難いからである。
 一方、記事の注記で『百済記』を引き、木満致の出自について、木羅斤資[もくらこんし]が新羅を討った時にその国の女をめとって産んだとあるのは注目される。これが真実とすれば、木満致は母方から新羅人の血を引いていることになるからである。
 この注記では、本文と異なり、木満致は百済に来て日本と往来したが、任那を専らにしたため、天皇(応神)が呼び寄せ、職制を与えたとされていることは重要である。
 この点、『書紀』では履中紀に蘇賀(我)満智宿禰平群氏や物部氏らとともに国政に携わったことが簡単に記されているが、「履中天皇」は応神(昆支)と継体(男弟)の直接的な父子関係を隠すため、中間の埋め草に設定された架空人物と考えられるので、この国政参与はやはり応神=昆支大王代のことに振り替えて読むべきだろう。
 さらに、平安時代に斎部[いんべ]氏が出した史料『古語拾遺』には蘇我麻(満)智宿禰が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理する職責に就いたとの記事が見える。この三蔵は後代の制度であるから正確でないが、要するに満致は財政担当職を担ったという趣旨である。、古代国家の王室財政担当者は宮宰格であるから、木満致=蘇我満智は昆支が倭王即位後に百済から呼び寄せられて王室財政を任され、実質的な宰相として大王を補佐したものと考えられるのである。
 ちなみに、蘇我馬子の子に倉麻呂、その子にいわゆる「大化の改新」の首謀者の一人ともなる倉山田石川麻呂がいることからも、蘇我氏が倉(蔵)に関わる氏族であったことがうかがえる。
 そうすると、『記』が葛城氏や木(紀)氏らとともに蘇我氏の遠祖を武内宿禰とするのは、いずれも昆支大王代に呼び寄せられたか、すでに5世紀前半頃から渡来して昆支の支持基盤となった河内閥を形成した百済系豪族とともに、渡来系の出自を抹消し、一括して天皇系譜に編入する『記』の政治的作為であったと見るべきであろう。よって、先の蘇我氏系図上、蘇我氏の直接の祖とされる蘇我石川宿禰蘇我満智は同一人物とみなしてよい。
 この石川とは、おそらく渡来直後に木満致が本貫を置いた河内側の石川にちなんだもので、その後彼自身かその子孫がヤマト側の曽我川流域に進出して、この一帯も石川と呼ばれるようになると同時に、氏も曽我(蘇我)を称するようになったものであろう。
 ところで、継体紀3年条にあまり注目されないが、ここで注目すべき記事がある。それによると、同年二月、使いを百済に使わしたとあり、注記で『百済本記』を引いて、「久羅麻致支弥(クラマチノキミ)」が日本から来たが詳しくはわからない」としている。この「久羅麻致支弥」を「倉麻(満)致君」もしくは「木羅麻(満)致君」と読めば、木満致=蘇我満智が使臣として故国・百済に遣わされたことを示唆していると解釈できるのではないだろうか。
 一方、雄略紀9年条には、系図上は満智の子になる蘇我韓子宿禰重臣間のトラブルに巻き込まれ、百済王から国境を見せたいと招かれた際、百済の地で一種の決闘により命を落とすという説話的なエピソードが見える。しかし、前章で論じたように、雄略=欽明であるから、この記事は架上・潤色であろう。
 こうした記事と継体紀には蘇我氏が登場しないこととを考え合わせると、木満智は倭で失墜して故国・百済へ帰国し、そのまま倭に帰還せず故国で死去したのではないかと推定できる。このことは、継体=男弟大王代には百済系河内閥の権勢が先代の時よりも低下したことが関係しているのかもしれない。ただ、木満致は倭に長期滞在中、倭人女性をめとって倭にも子孫を残し、そこから稲目やその子・馬子らが輩出したと見ても不合理ではあるまい。
 この点、欽明紀では逆に、紀臣奈率[きのおみなそつ]とか、物部施徳[もののべのせとく]などのように、百済の官位を持つ倭系の氏族が使臣として少なからず登場するが、百済系の昆支朝成立以来、倭済同盟が強化され、百済から倭へ、逆に倭から百済へという形で人の相互移住の波が起き、各々の宮廷で官職に就き、そのまま子孫が土着していったケースも少なくなかったと見られ、蘇我氏もそうした氏族の一つであったと考えられるのである。
 こうして、蘇我氏=木満致起源説には相応の根拠を見出せるのであるが、現在この説はすっかり下火である。その背景として、プロローグでも指摘したような新皇国史観の影響があり、何としても倭国は大王家(天皇家)もそれを支えた豪族も含め、古来の土着人によって形成されたネイティブな国であるととらえようとする傾向が強まっていることがあるのであろう。
 しかし、近年、蘇我氏百済人起源説を補強するような考古学的発見があった。蘇我氏全盛期を築く蘇我馬子が建立した蘇我氏の氏寺にして日本初の仏教寺院である法興寺飛鳥寺)の原型が従来想定されていた高句麗よりも、直接に百済後期の代表的寺院・王興寺にあることが判明したのである。両者は瓦の文様や塔の構造といった主要な点で一致しており、同一の建築技術者によって建立された可能性が高いという。
 このことは従来から、文献上でも『扶桑略記』(平安時代の私撰仏教史書)に、法興寺仏舎利を塔の芯礎に納め、刹柱を立てる儀式で、嶋大臣(馬子)ら百余名が百済服を着用したことが記されているように、風俗的にも蘇我氏百済人起源を裏づける史料が存在していたことと相まって、ますますその裏づけを強めるものと思われる。