第七章 「昆支朝」の継承と発展
(3)辛亥の変と獲加多支鹵大王
男弟大王の死
男弟大王の治世期間は約30年に及んだ父・昆支大王のそれに及ばなかったが、やはり20年かそれ以上の長期にわたった。ただ、男弟大王の死」はそれ自体が二つの大きな論争点の源泉となっている。
一つは、男弟大王陵の比定問題である。『書紀』によると、男弟大王=継体天皇は531年に死去し、「藍野陵」[あいののみささぎ]に葬られたという。この「藍野陵」について、宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を治定している。
しかし、この古墳の年代は5世紀中頃と見られており、6世紀前葉に築造された継体陵とは時代的な開きがある。また『延喜式』で藍野陵の所在地は摂津国嶋上[しまのかみ]郡とされているところ、太田茶臼山古墳の所在するあたりは嶋下[しまのしも]郡であり、地理的にもズレがある。そこで、近年の学界通説は、高槻市の今城塚[いましろづか]古墳を真の継体陵とみなすようになっている。この古墳は6世紀代の後期古墳の特徴を持ち、地理的にも「藍野陵」に匹敵するからだという。
しかし、太田茶臼山古墳は墳丘長226メートル、一方の今城塚古墳はそれより小さい同190メートルと、昆支大王の誉田山古墳(宮内庁治定応神天皇陵)以来、とみに大型化した大王墓としてはどちらもふさわしくない。
著者は、前出の石渡氏の所論に従い、真の男弟大王陵は、あの日本最大級の大仙陵古墳、すなわち宮内庁治定仁徳天皇陵にほかならないと考える。
まず、第一の根拠として、先述したように、仁徳は継体の分身像だからである。仁徳紀67年には仁徳が陵地を定めて生前寿墓を築造したことが記されている。巨大な生前寿墓の築造は父・昆支大王も新たな大王権力の強大さを誇示するために行ったが、男弟大王はその大王権力の正統な継承者として、王権の継続的発展を世に知らしめるため、父の墳墓を越える空前の大墳墓(ただし、体積では昆支の誉田山古墳が最大)を築造したものと考えられる。
第二に、考古学的証拠として、石渡氏も指摘するように、米国のボストン美術館に所蔵されている仁徳天皇陵出土品とされる鏡が百済の武寧王陵出土の鏡と同系ないし同笵と判明したことは、武寧王陵と大仙陵古墳=男弟大王陵の同時代性を示している。ちなみに、武寧王陵の棺の素材は日本にしか自生しないコウヤマキであることも判明しており、この時期の倭済同盟の緊密さを物語っている。
ただ、大仙陵古墳の所在地は現在の堺市であり、「藍野陵」とは地理的に大きくずれることが同古墳を真の男弟大王陵とみなすことの最大のネックとなるであろうが、この問題については後に改めて検討する。
さて、「男弟大王の死」をめぐるもう一つの論争点、それは大王の没年である。『書紀』によると、継体は531年、支配階級でも短命だった古代では異例の82歳という高齢で死去したとされる。ところが、『書紀』は同時に、注記でわざわざ534年死去説も紹介したうえ、531年説は『百済本記』の記述によったと説明する。倭王の没年を同定するのに百済の史料を基準にするというのも奇妙ではあるが、6世紀の倭と百済はそれほどに一体的であったのである。
一方、『記』によると、継体は527年に43歳で死去したとされ、没年も『書紀』より早く、年齢の点では『書紀』と一世代以上もへだたる数字を挙げている。
このように、男弟大王の没年や没年齢が史料によってまちまちなのは、大王の死をめぐって何らかの秘密が隠されているのではないかという疑いを提起する。特に『書紀』が採用する531年説によると、継体の皇子で後継者の第27代安閑天皇の即位年が534年とされることとの関係で、この3年近い空位をどう説明するかが問題となる。
辛亥の変
実は、先の継体天皇の死に関する『書紀』の注記は『百済本記』を引いて、「聞くところによると、日本の天皇及び皇太子・皇子が皆亡くなった」と記している。このただならぬ「天皇家全員死亡」の原因については何も記されていないので、古代ではまれでなかった伝染病による大量死といったこともあり得るが、それにしても「全員死亡」は異常事態であるから、この記述と安閑天皇即位年のズレを考慮すると、531年(辛亥年)に一つの政変が起きたとも推定できる。これを仮説上、「辛亥の変」と呼ぶ。
この説の最初の提唱者・林屋辰三郎氏によると、「変」の内容はこうである。大伴金村主導の継体朝は朝鮮政策の失敗やそれと絡む磐井の乱などで信望を失ったため、継体の若き皇子・天国排開広庭尊[あめくにおしはらきひろにわのみこと]を支持するグループがクーデターで同皇子を大王に擁立したが(欽明天皇)、これに反発・対抗する金村らは534年、本来の太子である勾大兄皇子[まがりのおおえのみこ]とその実弟・檜隅高田皇子[ひのくまのたかたのみこ]を相次いで大王に擁立し(安閑天皇と宣化天皇)、531年から欽明で統一される540年まで二朝並立で内乱が続いたとする。
しかし、この説がクーデターの理由とする「継体朝の信望失墜」は磐井の件を『書紀』の叙述どおりに受け取っている点に疑問がある。前述したように、朝鮮政策(任那問題)と磐井を絡めるのは妥当でなく、むしろ「磐井戦争」での勝利は畿内王権の威令を高めたはずだからである。
たしかに二朝並立は魅力的な説明ではあるが、安閑と宣化が順次高齢で即位して数年で死去するなど不自然な点があり、その不自然さを糊塗するために、父・継体の没年齢を82歳という高齢に設定した―皇子の即位年齢も当然高くなる―ように見える。
筆者はむしろ『書紀』が引く『百済本記』の「全員死亡」を素直に受け取り、天国排開広庭尊とその支持グループが531年、継体=男弟大王の死去直後にクーデターを起こし、二人の異母兄、すなわち勾大兄と檜隅高田の両皇子を殺害して大王位を簒奪したものと読み解いてみたい。
辛亥の変に関するこのような新たな説は、つとに前出石渡氏が提唱しているところであるが、同氏自身は前述したように、継体=男弟大王を応神=昆支大王の実弟と見たうえ、欽明は応神の子とし、辛亥の変を叔父・継体の王統に対する欽明のクーデターと解している、しかし、私見は継体を応神の弟とする前提に賛同できないので、この点では石渡説と袂を分かつことになる。
ではなぜそのような大規模な流血クーデターが継体死去後に勃発したかと言えば、それは天国排開広庭尊=欽明天皇(以下、この節では「欽明」という)の出自と関わる。
欽明の母は手白香皇女[たしらかのひめみこ]といい、正史上は第24代仁賢天皇の皇女とされるが、これは例の弘計・億計物語に絡めた説話上の系譜であって、この女性は旧加耶系王家の一族(布留氏?)と推定される。従って「皇女」ではない。
『書紀』によると、同皇女は大伴金村のすすめで継体が正妃に迎えたというが、彼女を正妃にすると旧王家の皇親としての再興につながりかねないので、正妃にしたとは考えにくい。ただ、男弟大王は父と異なり、旧王族への赦免と和解措置―加夜奈留美命神社のような鎮魂社の建立もその一環と解される―を進めていたから、その流れで旧王家一族の女性を妃の一人に迎えた可能性はある。
そのような経緯から誕生したのが欽明であり、彼は旧王家と現王家双方の血を引く自らの出自に誇りを持っていたから、若く未熟ではあったが、王位への野心を抱くようになった。
一方、政変の標的として殺害された二皇子の母は目子媛[めのこひめ]といい、尾張連草香[おわりのむらじくさか]の娘とされる。尾張氏は東海地方の王家と言ってよい一族で、その祖は物部氏と同じニギハヤヒである。すると、これも加耶系渡来勢力・天孫ニギハヤヒ派の分派で、河内を本貫とした物部氏の勢力とは分かれて東海地方へ進出し、地域王権を形成していたものであろう。
昆支大王代以来の領域拡大政策の中で、東海へ勢力圏を広げるための通婚同盟としていち早く昆支の後継者・男弟王の妃として召し入れられたのが目子媛であり、この通婚同盟の枢要性に照らしても、彼女こそが男弟大王の正妃であったと考えられる。
従って、目子媛の産んだ長男・勾大兄が太子であって、彼が皇太子制度が確立する以前、太子であることを意味した称号・大兄を名乗るのもそのためである。そもそもこの大兄称号自体、大勢いた男弟大王の皇子の中から後継者を指名するために始まったものなのかもしれない。
こうした構図の中で、野心家・欽明が父・男弟大王死去後の空隙を狙って異母兄らに対して起こした謀反が辛亥の変であると考えられる。しかも、この時欽明側を強力にサポートしたのは、意外にも老宰相・大伴金村であったと思われる。というのも、彼にはそうすべき二つの理由があったからである。
一つは彼自身、由緒ある旧加耶系王権派氏族として旧王家の血を引く欽明に親近感を抱いていたこと、もう一つは男弟大王治世末期に遡るいわゆる「任那四県割譲問題」をめぐって、金村は勾大兄一派と対立したことがあり、その関係から勾大兄が大王位に就けば自らも排除される恐れがあったことである。
この「任那四県割譲問題」については後に改めて立ち入って検討するが、さしあたり『書紀』の叙述に従えば、昆支大王代から畿内王権が朝鮮半島西南部(正確には任那でない)に保有した権益を百済に譲渡するかどうかをめぐる政権内部の意見対立であり、譲渡を認める百済寄りの立場をとった金村らと反対の勾大兄らが対立し、金村らは百済から収賄したように中傷されたのであった。結局、四県は百済に譲渡されるが、この一件以来、金村と勾大兄は敵対関係にあったと考えられる。
このようにして、辛亥の変は前出林屋説とは逆に、欽明‐金村ライン主導で断行されたと見ておきたい。大伴氏は元来軍事氏族であり、配下に軍団を擁していたから、クーデター部隊を結成することは容易であり、これに新興の物部軍団からも物部尾輿のような若手―後年、金村と対立するようになる―を抱き込んで電撃クーデターを断行したものであろう。
さて、前回男弟大王陵の比定に関連して保留しておいた問題、すなわち大仙陵古墳が真の男弟大王陵だとしたら、『書紀』で継体陵とされる「藍野陵」は誰の墓であろうかという問いである。これに対しては、クーデターで殺害された勾大兄皇子の陵墓と答えておきたい。そして、それこそが学界通説の継体陵とされる今城塚古墳であろう。