歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第29回)

第七章 「昆支朝」の継承と発展

(2)出雲平定と磐井戦争

イトモ征服と石上神宮
 第四章で見たように、出雲西部では本来の「出雲」である杵築大社(後の出雲大社)を拠点とする植民都市イトモの伊都勢力が5世紀後半には繁栄期を迎え、母体である九州糸島半島の伊都国時代のままに新羅侵攻(主に東海岸の寇掠)を続けていた。
 一方、百済は5世紀半ばの毗有王代から高句麗対策上、親新羅に方針転換していたが、475年の高句麗侵攻による王都陥落後は、東城王代に通婚同盟を結んで新羅との関係をいっそう強化していた。
 こうした中で、東城王はおそらく新羅の要請を受けて、父の昆支大王に伊都勢力の取締りないし撃滅を依頼していたと思われ、昆支大王の治世中からイトモ攻略は始まっていたと考えられる。
 ただ、伊都勢力は強力な水軍勢力であったうえに、このイトモ征服戦争は基本的に神聖同盟を結んだ出雲東部の意宇王権の西部進出を軍事的に支援する間接的な方法をとっていたために、完全な征服は必ずしも容易ではなかったように見える。
 しかし、『三国史記新羅本紀によると、倭の新羅侵攻は500年の長峯鎮攻撃を最後にピタリと止まってしまうことから、6世紀代に入って早い時期にイトモは征服されたものと推定される。
 それが昆支大王治世末期か、男弟大王治世初期かは確定し難いが、後者と考えてみたい。それは垂仁紀に架上されている石上神宮奉納のことと関わる。
 垂仁紀39年10月条は、垂仁天皇の皇子とされる五十瓊敷命[いにしきのみこと]が剣一千口を造らせて石上神宮に奉納した後、同神宮の神宝管理者となったと伝える。その後、五十瓊敷命は年を取ったので妹の大中姫[おおなかつひめ]に神宝管理者の地位を譲ろうとしたが、姫は「女では神宝を納める高い宝庫に登れない」と固辞したため、物部十千根連に委ねたことから、物部氏が以後、神宝管理者となったとの由来説明がある。
 この石上神宮は元来、前章で旧加耶系王家の可能性を指摘した布留氏の本拠でもあり、想像をたくましくすれば、旧加耶系王権末期の王宮跡ということも考えられる。実際、垂仁紀は注記で五十瓊敷命が納めた剣は―布留氏の後裔である―市河という者が管理したという説も引いている。
 いずれにせよ、例の七支刀の所蔵でも知られる石上神宮は後に物部氏が管掌する朝廷の武器庫のような役割を果たすことになり、市河氏(布留氏)がその下で事務方を担ったのかもしれない。
 問題は、『書紀』が垂仁天皇の皇子とする「五十瓊敷命」なる人物。「垂仁」は継体=男弟大王の分身像にすぎないから、その皇子云々という作為も除去してとらえ直すと、「五十瓊敷命」とは「イトニシキ(ン)」=伊都尼師今とも読めそうである。
 「ニシキン」は前に伊都国の由緒説明で指摘したように、新羅とも共通する古い辰韓系首長号であり、伊都国からの流民である伊都勢力の首領も同じ称号を名乗っていたかもしれないとも指摘した。
 すると、ここから言えることは、男弟大王代にイトモを征服した際、伊都勢力の首領を捕虜として畿内へ連行し、石上神宮の神宝管理者の地位を与えたのではないかということである。
 そもそも石上=イソノカミとはイソ(イト)の神とも読め、まさにイソタケルが連想されてくるところである。そうだとすると、石上神宮とはイトモ征服の戦勝記念的な意味を込めて、布留氏の旧本拠に新たに創建し直された神殿であったかもしれない。
 しかも、そういう神社の神宝管理が最終的に物部氏に委ねられたということは、昆支大王代の三輪山宗教改革に尽力して三輪山神職としてデビューした物部氏のいっそうの地位上昇を示すとともに、物部氏がイトモ征服に軍事的にも貢献したことを裏書きしている。
 この点で注目されるのは、島根県大田市にある物部神社である。出雲西部を超えて石見国領内に大田(意宇田)の地名が残るのも、前述したように東部の意宇王権が西部に進出したことの痕跡であるが、この進出に畿内王権が軍事的にも深く関与し、その先鋒を担ったのが物部氏の軍団ではなかったか。
 そうだとすると、物部神社とはこのイトモ征服戦争に関わった物部軍団の軍営が置かれ、後には畿内王権が出雲の東西に広がった意宇王権を監視し、なし崩しに併合していくうえでの目付的役割を果たした常設の軍事‐行政機関の跡であるということも考えられる。こうしてみると、物部神社の社伝で同神社の社殿が継体8年に天皇の命により創建されたと伝えられることも、単なる伝承と決めつけ難いものがある。
 このことは、石上神宮奉納記事に先立つ垂仁紀26年条で、物部十千根連が出雲の神宝検校のため派遣されたとする記事とも絡めてさらに究明されるべき点である。

磐井戦争とミヤケ設置
 前回見たイトモ征服の件は継体紀には全く記事が見えないが、継体紀に明記された男弟大王代のもう一つの重要な軍事作戦に九州の磐井勢力に対する征戦がある。この件は継体紀の中でも最も名高いものであるが、その意義を果たして記事のとおりに受け取ってよいかどうかが問題である。
 記事によると、継体21年という治世も晩期になって、朝廷が近江毛野臣なる将軍を司令官として新羅に敗北・併合された任那加耶)の南加羅[ありひしのから]・喙己呑[とくことん]を再建すべく大軍を派遣しようとしたが、筑紫国造磐井が反逆を企てているのを知った新羅が磐井に贈賄して朝廷軍の妨害を請託したことが発端とされる。
 これを受けて、磐井は肥前・肥後・豊前・豊後などを糾合して蜂起し、海路を遮断して朝鮮半島からの船舶を略奪、毛野臣の軍を妨害する挙に出たというから、磐井の勢力圏と軍事力は相当なものである。
 しかし、この発端(新羅による派兵妨害工作)と結果(九州北部・中部の一斉蜂起)にはズレがある。そもそも新羅による南加羅・喙己呑の併合とは新羅による金官加耶及び周辺小邦の併合を指しているとすれば、それは532年のことであり、継体21年=527年とは符合しない。
 仮に527年以前に新羅加耶地方の小邦を侵略・併合した事実があったとしても、男弟大王代の畿内王権はすでに百済系に変わっており、加耶地方はもはや王朝ルーツとしての重要性を持ってはいなかったので、大軍を送ってまで再建を図ることは考えにくい。実際に起きたことを見ても、それは単なる妨害工作ではなく、磐井を首領とする九州北部・中部の一斉蜂起であって、一個の戦争―磐井戦争―と呼ぶにふさわしいものであった。結局、磐井の「反乱」に任那問題を絡めたのは『書紀』の作為と見られるのである。
 元来、畿内王権は昆支のクーデター以前、ニニギ朝の時代から九州北部沿岸地域はおおむね支配領域に収めていた。しかし北部内陸地域から中部にかけては未征服のままであったところ、西海道(九州)を重視した昆支大王はこれらの地域にも断続的に遠征軍を派遣していたが、なお征服には至っていなかったと見られる。
 そうした中、6世紀に入ると筑紫の八女付近を拠点とする磐井の勢力が伸張し、九州北部・中部の盟主的存在となった。この点で『書紀』が「筑紫国造磐井」と表記するのは、畿内王権の支配領域が拡大し、地方行政制度が発達してきた6世紀半ば以降の制度である国造制を遡及的に磐井にあてはめる作為である。527年当時の磐井はまだ独立した地方王権であり、その意味で『記』が「竺紫君磐井」と表記するのはより正確であろう。
 ちなみにこの氏族の末裔は7世紀後半になって完全に畿内王権(ヤマト朝廷)に統合された時代にも、唐の捕虜となって生還した官人、筑紫君薩夜麻[さちやま]のようにまだ筑紫君を名乗っていた。
 これだけ強力な筑紫君とは、『筑後国風土記逸文によれば邪馬台国女王卑弥呼ないし台与にも比定できる甕依姫[みかよりひめ]を祖とする氏族であるとされるから、八女を拠点とすることに照らしても邪馬台国の後裔勢力と推定され、筑紫君の勢力伸張はある意味で300年ぶりの邪馬台国復活に近い出来事であった。
 この勢力の強大さは、九州でも有数の大古墳群で、筑紫君の王墓地とみなされる八女古墳群に象徴される。中でも前記風土記逸文の記述から磐井自身の墳墓と見られている岩戸山古墳は墳丘長では九州最大規模を誇り、周囲に石人や石馬、石盾などをめぐらし、王者的風格を備えた独特の古墳である。
 このような磐井との対決を迫られた戦乱は、昆支朝成立以来最初の一大危機であった。そこで、男弟大王は物部麁鹿火[あらかひ]を大将軍とする軍勢を送り、激戦の末、磐井を斬り、勝利した。ここでも物部軍団が活躍するところから、物部氏は男弟大王の治世を通じて王権の軍部として組織化され、物部氏も軍事氏族としての地位を確立したと見られる。
 より重要なことは、この戦争の事後処理として磐井の息子・葛子[くずこ]が糟谷屯倉―この時点ではミヤケでなく、筑紫君自身の領地―を献上して死罪を免れたということである。講壇学説上も、以後畿内王権の領域拡大・地方支配の要となる行政・経済支配機関ミヤケの設置は、磐井戦争の賠償措置として設置されたこの時が初例と見る見解が有力である。
 磐井戦争の勝利とその事後処理としてのミヤケ設置の報はおそらく九州はもちろん、他の地方にも伝わり、畿内王権の威令を高めるうえで決定的な意味を持ったはずであり、これを治世のほぼ最後の仕事として成功させた男弟大王最大の事績であったと言えよう。