歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第26回)

第六章 「昆支朝」の成立

(5)昆支大王の宗教改革

崇神紀の祭祀記事
 昆支大王の事績の中でも永続性を保った最大級のものが、宗教改革であった。それを抽出する手がかりは崇神紀に埋め込まれている崇神6年から7年にかけての祭祀記事である。この記事はなかなか複雑で、分析も困難であるが、大筋として次のような二段に分かれる。
 まず崇神(=応神)の治世になり、疫病や百姓の流離・反逆などが相次いだことから、天照大神倭大国魂神[ヤマトノオオクニタマノカミ]を天皇の御殿に祀ったが、両神の共存に不安があったので、両神を各々別の皇女に託して祀らせたところ、倭大国魂を祀った皇女は髪が抜け、体が痩せてよく祀れなかったという序曲で始まる。
 そこで、崇神は改めて自ら占うと、大物主神[オオモノヌシノカミ]が倭迹迹日百襲姫命に神がかりして、自分を祀れとのお告げがあったのでそのとおりにしたが、しるしはなかった。そのため天皇自ら斎戒沐浴して祈ると、夜の夢に大物主が現れ、「自分を我が子・大田田根子に祀らせればおさまるだろう」と告げられた。さらに三人の臣下の夢にも一人の貴人が現れて、「大田田根子大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市[いちしのながおち]を倭大国魂神を祀る祭主とすれば天下は平らぐだろう」とお告げがあったので、さっそく大田田根子を探し出し連れてきた。
 そして、物部連の祖・伊香色雄[いかがしこお]を神班物者[かみのものあかつひと](神への供物を分かつ人)に任じたうえで、お告げどおりに田田根子を大物主神を祀る祭主とし、長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすると、天下泰平になったという。
 このように「崇神」という諡号の由来ともなっている崇神=応神の敬虔ぶりは単なる神秘的なエピソードではなく、まさに昆支大王の「革命」とも言うべき宗教改革を暗示するものなのである。

三輪山出雲神道の成立
 上の記事に現れる宗教改革とは、要するにヤマト最大の霊山である三輪山周辺地域の宗教体系を強制的に改変したことを意味する。元来、三輪山周辺の伝統的な信仰はアマテラスに象徴されるような太陽信仰であったと考えられるが、昆支大王は当初、この伝統的な信仰に修正を加えて、アマテラスとヤマトノオオクニタマなる神の習合を図ろうとしたようである。これが先の「序曲」の部分である。
 このヤマトノオオクニタマは今日、やはり三輪山に近い大和[おおやまと]神社に祀られている。「倭」が冠されている神名からして土着的な神のようにも見えるが、元は単に「大国魂神」と言ったのであろう。そうだとすると、大国=意宇国であり、これも例の出雲東部の意宇王権系の神であったと考えられる。実際、『書紀』の神代紀では別伝を引用する形で出雲の大国主神の別名として「大国玉(魂)神」とある。
 しかし、伝統的な信仰と出雲神道の習合はうまくいかず、昆支は三輪山信仰そのものを改変する大胆な挙に出たものと思われる。それが大物主神の祭祀である。
 実は『書紀』別伝によると、この大物主神大国主神の別名とされるが、『記』の本文ではいわゆる「国譲り」に先立って、次のような場面がある。
 大国主神が、共に天下を造った少彦名命スクナビコナノミコト]が常世(不老長生の国)に去った後、出雲国の浜辺で「自分以外に天下を治められる者はいない」と豪語したところ、不思議な光が海を照らし、忽然と浮かんで「私があればこそお前は大きな国を造ることができたのだ」という声がした。この神が、大国主自身の「幸魂奇魂」[さきみたまくしみたま]というもので、「日本国の三諸山(三輪山)に住みたい」との願いに従い、宮を造って住まわせたのが大三輪の神であるという大神[おおみわ]神社の由来が語られている。
 要するに、大物主神も大国魂神も、大国主自体というよりも、大国主神の魂を取り出した「魂神」(みたまのかみ)であって、これが出雲神道三輪山へ移植するうえでクッションのような役割を果たしていることがわかる。
 現に大物主神を祀る大神[おおみわ]神社には大物主大神とは別個に大己貴[オオナムチ]大神(=大国主神)が合祀され、倭大国魂神を祀る大和神社でもやはり大国主神の別名である八千矛[やちほこ]大神を別途合祀しているのである。
 一方で、アマテラスはと言えば、三輪山周辺では影が薄く、わずかに大神神社の摂社としてアマテラスを祀る桧原神社が目に付く程度であり、脇に追いやられている。皇祖神=天照大神が明確に打ち出されるのは、時代下って7世紀も末のことと考えられるのである。
 こうして、昆支大王の宗教改革の狙いとは、ヤマト土着信仰の聖山であった三輪山に出雲神道を移植し、強制するということであったのである。

宗教改革の背景
 こうして、王権主導で信仰体系を改変してしまうというまるでアメン神信仰をアテン神信仰に転換した古代エジプトのアメンホテプ4世(アクエンアテン)ばりの宗教改革が断行されたのは、旧加耶系王権を支えていた三輪山周辺の在地勢力への支配統制を強めるためと考えられる。
 かれらは一応昆支の新体制に帰順はしたものの、政権中枢からは排除され、不満分子としてくすぶっており、そのことが王権の不安定化要素となっていたと考えられる。崇神紀が宗教改革の要因として、「百姓の流離・反逆」に触れていることもその暗示と読める。
 その一方で、宗教改革の過程では後の物部氏となる例のニギハヤヒ派が一役買ったようであり、その功績で一族の伊香色雄が枢要な神殿の神官職に任ぜられたものと見られる。このように物部氏が神官職として台頭したということは、同氏の立氏過程を知るうえで重要な手がかりであり、「物部」という氏族名も伊香色雄が就いた「神班物者」にちなんで、この時に下賜されたものなのかもしれない。
 ところで、昆支の宗教改革がイクナートンのそれと異なるのは、後者の急進的な一神教改革が結局一代限りで終わったのに対し、多神教自体は維持した前者のそれはその効果が永続化したことである。7世紀末に天照大神信仰が事実上の国教となって復権しても、大神神社大和神社など皇室にとって重要性の高い神社は今日に至るまで出雲系のままで、出雲大社も皇室から尊重されているのである。
 それにしても、昆支大王が出雲神道三輪山移植という施策を断行するには、出雲の意宇王権との深い同盟関係が必要であり、最終的に宗教改革が完了したのは、治世後半期のことと推定される。
 では、その意宇王権との同盟関係はどのようなものであったのだろうか。

畿内‐出雲神聖同盟
 昆支大王にとって初期の一大課題は、畿内王権の支配領域を拡大することにあったから、(4)でも見たように、彼は日本海沿岸にも遠征軍を送っている。特に丹波方面の遠征軍が但馬を越えて因幡伯耆へ入ればそこは意宇王権の勢力圏であったから、意宇王権と接触が生じても不思議はない。
 ただ、昆支大王時代は遠征用騎馬軍団が未整備であったから、強力な他勢力に対しては直接的な武力征服ではなく、一定の軍事力を背景とした通婚同盟によるのが一般であったと見られるが、意宇王権に対しては宗教を共有し合うという一種の神聖同盟の方式が採られたと考えられる。これは第四章でも見たように、意宇王権が優れた神権政治勢力であったとともに、昆支政権が国教としてふさわしい宗教体系を持ち合わせていなかったことによる例外的な同盟方式であったろう。
 古代国家では「宗教を制する者が政治を制する」という法則は昆支も熟知していたはずであるが、彼の故国・百済は北方の扶余族が南下して馬韓に建てた国家であるため、統一的な伝統宗教は存在しなかったと見られるし、中国仏教はすでに4世紀末に百済に伝来していたもののまだ普及していなかった。そういう事情から、昆支は豊饒な神話世界を擁していた意宇王権系の神々を共通の信仰対象とする宗教的な同盟を締結したものと考えられるのである。
 その同盟の一つの政治的帰結は、大田田根子なる人物を大物主を祀る三輪山の神官長として任命したことであった。この大田田根子とは大物主と活玉依姫[いくたまよりひめ]の神婚によって生まれた子で、河内の茅渟県[ちぬのあがた]の陶邑[すえむら]にいたところを見出して迎えたという。陶邑とは加耶式土器の須恵器の一大生産地であり、物部氏の勢力圏でもあった。この伝承は、おそらく神班物者となった物部氏が陶邑から祭祀用土器を搬入したことが関係しているのかもしれない。
 こうした大田田根子の神婚出自譚に隠されているのは、大田田根子とは「意宇田田根子」であり(『記』では「意富多多泥古」と表記される)、この人物はまさに意宇王権系の人物だったという事実である。この点、筆者は大田田根子は意宇王権の王族で、神聖同盟に基づいて三輪山の神官長に任命された人物と推定する。いずれにせよ、この大田田根子の末裔が後に朝廷でも要職者を多数輩出する三輪氏(大三輪君)である。
 その他、大物主神の末裔氏族として賀茂君がある。これも君号が付いている氏族であるから、やはり三輪氏と同様、意宇王権王族の一派の可能性がある。賀茂氏は「出雲国造神賀詞」でも、「倭ノ大物主櫛甕玉命と御名をたたえて、大御和の神奈備に坐せ、己ノ命の御子阿遅須伎高孫根ノ命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ・・・」と詞べられるように、高鴨神社を主祭し、やはり要職者を輩出する家門となった。
 また、垂仁紀には初め出雲から力士として招かれ、後に土師部(土器職人)を束ね、初めて殉葬に代えて埴輪を発案したとの伝承の残る野見宿禰[のみのすくね]の記事も架上されている。この野見宿禰は相撲または柔道の祖ともされ、後に土師連の姓を賜り、時代下って菅原氏に改姓して、菅原道真を出す家門となった。
 こうした土師部のような職人集団も含め、畿内‐出雲神聖同盟の結果として、大勢の人が出雲から畿内へ移住してきたことがうかがわれ、その中にはヤマトの名門貴族となる家系も現れたのである。
 ただ、この同盟は当初から畿内王権優位の構造を持っていたようで、そのことが神話構成上も、スサノオとか大国主のように本来は意宇王権の祖先神ではない神々を作出されるなど、出雲神道そのものに対する畿内王権主導の改変の跡がうかがえることに表れている。
 また、もう一つ注目されるのは、崇神紀60年7月条と垂仁紀26年8月条と二度にわたって出てくる出雲の神宝検校の記事である。内容的には伝承的であり、特に紹介するほどのこともないが、この神宝とは出雲国造の祖先神とされる武日照命[タケヒナテルノミコト]が天から持ってきた神宝とのことで、こうした宗教的に由緒ある神宝を畿内王権が検校する権限を持っていたとすれば、これも畿内側優位の従属的な同盟関係を前提としてのことと理解される。
 なお、垂仁紀に架上された二度目の検校には伊香色雄の子・物部十千根連[もののべのとおちねのむらじ]が派遣されており、物部氏畿内‐出雲同盟との結びつきの強さを改めて示している。
 こうした同盟関係の非対称性がやがてなし崩しに意宇王権が畿内王権に吸収されていく「国譲り」の素地となったのである。

百済から総督格として派遣され、倭に事実上定住していた百済王子・昆支は5世紀後葉、クーデターで畿内加耶系王権(ニニギ朝)を打倒した後、昆支大王となって王権を強化し、騎馬化を進めて畿内王権の領域を拡大した。さらに出雲東部の意宇王権と結んで三輪山宗教改革も断行した。この昆支大王こそが、天皇系譜上の「応神天皇」にほかならない。
では、彼が創始した「昆支朝」は6世紀代にかけてどのように継承発展せられていったのであろうか。