歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第43回)

第十章 天智天皇天武天皇

後昆支朝初期を代表する天智・天武の兄弟天皇。しかし乙巳の変でも活躍した実力者・中大兄(天智)が668年まで天皇に即位しなかったとする正史は真実であろうか。また壬申の乱の勝者となる天智天皇実弟天武天皇は『万葉集』で讃えられたように、本当に神のごとく偉大な天皇であったのだろうか。

(1)孝徳時代の中大兄

見習い期間
 前章でも見たように、乙巳の変では中臣鎌子オルグ・感化を受けて蘇我入鹿大王暗殺の実行部隊長役を務めた中大兄皇子(諱は葛城皇子)は、孝徳天皇の新政権では当初から後継指名を受けて事実上の皇太子の地位に就いた。
 とはいえ、彼はこの時点ではまだ20歳そこそこであり、いきなり政治の表舞台で実権を握ったわけではなかった。少なくとも孝徳政権前半の中大兄は鎌子を指南役としながら、政務の見習いをしていたものと考えられる。
 孝徳政権初期の中大兄の事績としては、大化2年という早い時期に、公民制移行を進言する上奏文(いわゆる皇太子奏請文)を提出したことが注目される。この上奏文中には公民制を支える一君万民思想が盛り込まれており、「大化の改新」の核心を成す提言となっている。同時に、彼は公民制実現の範として、自ら所有する入部と屯倉天皇の改新の詔の規定に従って返上している。
 こうした行動がどこまで真実なのかはわからないが、真実だとしても背後に鎌子があって教示していたことは確実と思われ、奏請文の文言にも鎌子の考えが反映されていたことは間違いない。
 この時期の中大兄は、むしろ政治警察の分野で大いに“活躍”している。その手始めは、前章でも触れたように、政変の3か月後に異母兄・古人大兄らの謀反を摘発・討伐したことであった。
 続いて、大化5年には義父でもある右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の「謀反」事件を摘発し、石川麻呂を自殺に追い込んでいる。実際のところ、この事件は石川麻呂の弟・日向の讒言によるでっち上げであり、石川麻呂の自殺後に冤罪が判明、日向が筑紫宰に“左遷”される形で―実質上栄転とも取れる―終わっている。
 これは、中大兄がおそらくは大臣ポストを狙って兄の冤罪を仕組んだ日向の策動に乗せられた恰好になっているが、慎重に吟味せず、武断的に即決処理しようとする中大兄の一面がよく表れている一件である。
 孝徳政権前半期の中大兄の役割は、このように言わば政治警察長官といったところであり、政策的な面ではむしろ左右両大臣のほか、孝徳政権の国博士(国政顧問)であった旻法師や高向玄理らの役割が大きかったと見られる。

無血クーデター
 孝徳政権後半期になると、中大兄は次第に政治的な実力をつけてきたと見られるが、その分、孝徳天皇との不和が表面化してきたようである。
 この頃の中大兄は強固な大王至上主義者に成長しており、情け容赦しない革命家タイプであったのに対して、孝徳天皇は『書紀』の人物評によると「情け深く」「学者好み」の文人タイプであり、両人は性格的にも相容れないところがあったようである。
 孝徳政権末期の653年、中大兄は天皇に難波から飛鳥への遷都を進言するが、天皇が許可しなかったことから、彼は母で孝徳の姉でもある宝皇女や実弟大海人皇子のほか、孝徳の正妃・間人[はしひと]皇后まで引き連れて飛鳥河辺行宮[あすかのかわらのかりみや]へ移り、公卿大夫・百官の人も皆従ったという。
 その結果、孝徳天皇は難波の宮殿にほとんど独り取り残され、中央政府も機能しなくなった。要するに、中大兄は旧王都の飛鳥に仮の宮を造営し、ここに自らを中心とする臨時政府を置いたのである。これは、乙巳の変の後、実力をつけた中大兄による再クーデターと呼ぶべき一つの政変にほかならなかった。
 このような事態に至った理由について『書紀』は明確に記さないのであるが、先述した性格的な不一致以上に、中大兄が理想とする大王至上制の実施、特に部民制の解体と公民制移行とが孝徳政権下では中途半端に終始しており、豪族らの氏族特権が温存されていたこと―これも「情け深い」孝徳天皇の個人的な性格と無関係ではあるまい―への中大兄(及び鎌子)の不満が背景にあったと考えられる。
 それとともに、対外政策においても、「百済のくびき」を逃れて再び新羅・唐への接近を図っていた孝徳政権の政策に対して、中大兄は後年天皇即位後の外交・軍事政策を見る限り、百済重視に傾斜しており、その点では乙巳の変で打倒した蘇我入鹿大王時代の政策の支持者でさえあったように見える。
 こうした政策的な不満・不一致を背景として、ついに中大兄は無血クーデターによって自ら政権を奪取するに至ったものであろう。
 もっとも、中大兄とて孝徳天皇を強制退位させるほどの強硬策はさすがにとらなかったが、皇后まで飛鳥に連れ去ったのは中大兄らしい冷徹なやり方であり、孝徳天皇は「鉗(かなき:馬の首にはめる木)着け吾が飼う駒は引き出せず吾が飼う駒を人見つらんか」(鉗を着けて引き出せないように大切に飼っていた我が馬をどうして他人が見知るようになって連れ去ったのだろう)と詠み、孤独と失意の中、654年に没したのである。