歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弥助とガンニバル(連載第7回)

六 ピョートル1世とガンニバル

 ポルトガルが斜陽化していった17世紀には、北方でも変化が起きていた。ロシアにロマノフ朝が成立したのである。当初は中世的な性格を脱し切れなかったこの王朝を北方の新帝国に押し上げたのが、大帝を冠せられるピョートル1世である。彼の終生の課題はロシアの西洋化であった。
 そうした西洋化政策の付随的な結果として現れたのが、後にオスマントルコ黒人奴隷からロシア軍人となるアブラム・ガンニバルである。ガンニバルもまた奴隷の常として本名は不詳であり、ガンニバルは古代カルタゴの英雄ハンニバルにちなんだものである。
 ガンニバルの出身地については諸説あり、従来の通説ではエチオピアとされてきたが、近年はこれを否定し、より西のチャドないしカメルーンとする説も有力化している。当時、オスマン帝国の奴隷調達地が内陸アフリカにまで広がっていたことを考慮すると、彼はエチオピアコプト派教会経由でオスマン帝国に売られた黒人奴隷だった可能性は高いだろう。
 ガンニバルの匿名の評伝によれば、彼は貴族家庭の子女を人質として差し出す当時の慣習に従ってオスマン宮廷に連行されたという。いずれにせよ、彼は7歳の頃にオスマン帝国コンスタンティノープルに連行された。そのままであれば、宮廷で黒人宦官として栄進する道もあっただろう。
 ところが、どのような経緯か、ガンニバルは間もなく、ロシア外交官の手で拉致され、北のロシアへ再連行されるのである。この拉致はピョートル1世の命令に基づくものだったという。彼の意図は明確でないが、当時西洋宮廷でも黒人児童を珍重することが流行していたといい、西洋化を推進していたピョートルも模倣したのかもしれない。
 ピョートルは聡明なガンニバルが気に入り、洗礼を受けさせ、自ら名付け親となるほどの寵愛ぶりであった。この点、やはり黒人奴隷の弥助が気に入り、武士として登用した織田信長に似て、珍奇なものに並々ならぬ関心を示す革新的なピョートルの性格が現れている。
 成長したガンニバルは当時西洋における学術の中心地であったパリへの留学を命じられ、5年間にわたり多方面の高等教育を受けた。その間、当時のフランス啓蒙思想家らと交流し、中でもヴォルテールはガンニバルを「濃い肌の啓蒙の星」と称えたとされるが、これには異論もあるようである。
 いずれにせよ、ガンニバルが才覚を発揮したのは人文学よりも軍事科学であり、当時のフランス軍でも従軍経験を得た彼は職業軍人・工兵士官の道を歩むことになった。彼は1722年にパリ留学を終え、帰国したが、不運にもパトロンのピョートルは25年に死去してしまう。このような経緯も主君信長を失った弥助に似ている。
 27年、ピョートルの幼い孫ピョートル2世が即位すると、敵視されたガンニバルはこうした場合の慣例としてシベリア送りの憂き目を見るが、3年後に赦される。幸いにも41年にはピョートルの娘エリザベータが女帝に即位したことから、ガンニバルは女帝の宮廷で軍事顧問として重用された。
 彼は少将に昇格するとともに、レバル(今日のエストニアのタリン)総督にも任命され、52年まで務めた。そのうえ、プスコフに農奴付きの土地を安堵され、地主貴族にも叙せられたのだった。奴隷身分から貴族身分への階級上昇であった。
 最終的に大将まで昇進した彼はエリザベータ女帝が没した62年に公職を退き、エカチェリーナ2世女帝時代まで生きて85歳の長寿を全うした。彼のような存在は長い帝政ロシアの歴史の中でも唯一無二であり、ピョートル1世という「玉座の革命家」の存在なくしては、おそらくあり得なかったであろう。