歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弥助とガンニバル(連載第8回)

七 ガンニバルの子孫Ⅰ

 黒人将軍ガンニバルは、信長の弥助とは異なり、ロシア帝国軍人・貴族としてロシアに定着したため、ロシアに子孫を残すこととなった。しかし、最初の結婚は不幸な失敗に終わっている。その相手はギリシャ人女性であったが、経緯は不明ながら、妻にとっては強いられた結婚だったため、妻は夫を嫌い、夫婦仲は不調であった。
 ガンニバルは肌の色の白い娘を生んだ妻の不貞を疑い―遺伝上は子の肌が白い可能性もあり得たが、18世紀の知識の範疇ではなかったろう―、妻を10年以上も監獄に閉じ込めるという過酷な挙に出た。この時期、彼はすでに一個の権勢家だったのだ。
 ガンニバルは、最初の妻と法的な婚姻が続いている間に、今度は北欧とドイツにルーツを持つ貴族女性と同居し始めた。これは重婚に当たるため、ガンニバルは処罰され、離婚後も再婚は非合法なままであったが、この事実婚はうまくいったようで、二人の間には長男イワンを筆頭に10人もの子が生まれた。
 イワンの肖像画を見ると、父と同様明らかに黒人系の風貌をしており、父も今度は満足だっただろう。彼は父と同様、職業軍人となり、海軍士官として栄進する。特に露土戦争では黒海艦隊を率いてトルコ要塞の占領で軍功を上げた。その後もいくつかの海戦で戦果を上げ、1777年には時のエカチェリーナ2世により、海軍トップである海軍総監に任命された。
 翌年には現ウクライナ領に属するヘルソンの要塞司令官となり、エカチェリーナ女帝の事実上の夫でもあったグリゴリー・ポチョムキン公爵の指揮の下、ヘルソンの都市建設にも関与した。その功績で、イワンは女帝から叙勲された。ヘルソンは後に、重要な軍港都市として発展する。
 しかし、イワンは84年、上司に当たるポチョムキンと衝突して引退に追い込まれた。引退後は3年前に没した父の領地で余生を送り、1801年に死去している。最終階級は、父と同じ大将だった。
 こうしてイワン・ガンニバルは軍人として父にもひけをとらない成功を収めたが、父とは異なり生涯独身を通し、子孫を残さなかった。その理由は不明だが―弟のオシップは子孫を残している―、比較的人種差別が少ないと言われるロシアにあっても、18世紀当時は肌の色による通婚障壁がなかったとは言い切れないだろう。