歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弥助とガンニバル(連載最終回)

九 エピローグ
 :アフリカ奴隷貿易のその後

 弥助とガンニバルは、奴隷貿易システムが生み出した東方のアフリカ黒人武人であり、その後、両者の再来と言えるような例は記録されていない。その意味では、奴隷貿易システムの国際的な広がりを象徴する特異な事例だったとも言える。
 弥助を日本にもたらしたポルトガル主導の奴隷貿易は、ポルトガルオマーン海洋帝国の台頭に伴い後退していった後、後発の英国が主導するようになり、カリブ海西インド諸島プランテーション労働者として黒人奴隷を送り込む銃器‐奴隷‐砂糖の三角交換貿易に発展する。
 三角貿易による利益は産業革命の物質的土台となったとも理解されているが、17世紀以降鎖国による自足体制に入る日本がこのシステムに参画することはなかったし、広大なシベリア開拓に注力するロシアも海外プランテーションに利害関心を示さなかったため、やはり奴隷貿易システムの当事者とはならなかった。
 しかし、三角貿易は奴隷対象者の減少による奴隷価格高騰という経済的変化によってメリットが少なくなったところへ、次第に芽生えてきたキリスト教人道主義の精神にも後押しされ、当の英国自身による提起により、19世紀前半期には廃止の潮流が起きる。これは奴隷貿易システムを新たな帝国主義植民地支配に置換する契機となった。
 ちなみに、東アフリカでポルトガルを駆逐して台頭していたオマーンは、1856年に全盛期を演出したサイード大王が没した後、跡目争いから分裂し、アフリカ側のザンジバルがブーサイード分家の下に分離独立していった。
 こうして新生されたザンジバル・スルターン国も1870年には英国との間で奴隷貿易禁止を協定するが、その陰では通称ティップー・ティプのようなアラブ系の血を引くスワヒリ豪商が丁子等のプランテーションを目的とした私的な奴隷取引を展開し、アフリカ本土内陸部まで勢力圏を広げた。
 一方、ロシアに拉致される以前のガンニバルが捕捉されていたオスマン帝国は1890年、ロシアを含む欧米列強にザンジバルも加えた17か国が集まったブリュッセル会議でアフリカ黒人奴隷貿易の禁止協定に調印したにもかかわらず、非公式の奴隷調達慣習は手放せず、帝国が終焉する20世紀前半まで温存されていたのである。