歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

土佐一条氏興亡物語(連載第1回)

一 土佐一条氏前史

 「小京都」と呼ばれる景観都市が全国に多数散在し、一定の条件を満たした全国の40を越える小京都で構成される「全国京都会議」という準公式団体すら存在する。同団体に加盟していない自称・他称の小京都まで含めれば小京都の数はもっと多いだろう。
 しかし、それらの「小京都」の中で真に京都の街並を模して設計された所となると、数は限られる。中でも明確に京都を模した「真の小京都」として、高知県の中村(現四万十市)がある。中村が「真の小京都」となったのは、実際に戦国時代、ここを城下町として設計整備した京都の公家を出自とする戦国大名土佐一条氏が郷里の京都を模したからにほからならない。
 戦国大名土佐一条氏は、数ある戦国大名諸氏の中でもユニークな存在である。「下克上」というキーワードに象徴されるように、多くの戦国大名が室町守護大名の家臣級の武将・土豪から実力で主家を凌駕してのし上がっていったのとは対照的に、土佐一条氏は関白まで務めた京の公家に出自する戦国大名だったからである。「下克上」の真逆、「上落下」の存在であった。
 土佐一条氏の本家である一条家は、公家中の公家である藤原氏を統一的な祖とする五摂家のうちの一つである。元は九条家から出た鎌倉時代の関白一条実経が家祖である。そのため、五摂家の中でも最上位の近衛家に次ぎ、九条家と同格とみなされる名門であった。
 しかし、戦国時代へのステップとなった応仁の乱当時、一条家は京都でやや閉塞していた。戦国時代という歴史観を初めて示したことでも知られる古典学者の一条兼良は関白太政大臣に上り詰めたが、政争に巻き込まれ、早期辞任に追い込まれていた。
 兼良の嫡男教房は一条家当主として初めて時の室町将軍足利義教から偏諱を受けた人物であり、関白左大臣を務めたが、五年ほどで辞職しており、京都政界でさほど力を持てなかった。引退状態の中、応仁の乱が勃発し、教房は初め奈良へ疎開するが、間もなくここを老父に譲り、自らは一条家領地のある土佐国幡多荘に疎開下向した。
 応仁の乱の渦中、嫡男政房は福原に潜伏したが、文明元年(1469年)、東軍に攻め込まれ、無抵抗にして殺害された。教房は父の兼良ともども政房の夭折を悲嘆したと言われる。しかし失意の中、土佐疎開中の文明七年(1475年)、土佐で次男房家が誕生したことは不幸中の幸いであった。この一条房家こそ、物語の中心である土佐一条氏の家祖となる人物である。