歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

インドのギリシャ人(連載第5回)

Ⅳ アガトクレア摂政王太后

 

 インドのギリシャ人王朝の最盛期を一代で築いたメナンドロス王が死去した時、後継者の王子ストラト1世はまだ幼なく、後見役として生母のアガトクレア王妃が摂政王太后として統治の実権を握ったと考えられている。
 その根拠となるのは、貨幣である。インドのギリシャ人王朝に関してはまとまった体系的な史書が全く存在せず、王名やその在位時期も王の肖像を刻んだ鋳造貨幣が主要な情報源となる。
 その点、アガトクレアに関しては表面に単独で肖像が刻まれ、ギリシャ語の銘文で「女王」と記された貨幣を見つかっていることから、摂政当時は非公式ではあれ「女王」とみなされていたことも窺わせる。
 他に、子息のストラト1世とのツーショットで刻まれた貨幣もあり、公式的には摂政であったと見られるが、ストラト1世が統治年齢に達した紀元前120年頃を境に貨幣から消えることから、摂政を退任し、ストラト1世の親政に移行したものと見られる。
 アガトクレアが単独で登場する初期の貨幣では彼女を「神のような女王アガトクレイア」「女王アガトクレイア、法の救世主であり信奉者」などと称賛する銘文が刻まれていることから、女王とみなされ崇敬されていたことが窺える。
 こうしたことから、彼女はヘレニズム世界ではシリアのセレウコス朝唯一の女王クレオパトラ・テアやエジプトのプトレマイオス朝では最後のクレオパトラ7世をはじめ、複数輩出した女王らと並び、ヘレニズム世界における女性統治者の一人に位置づけられる。
 ちなみに、アガトクレアより先行するセレウコス朝の女王クレオパトラ・テアはプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス6世とクレオパトラ2世の娘で、エジプトからシリアのセレウコス朝に嫁ぎ、相次いで3人のセレウコス朝国王の王妃となった人物であり、ヘレニズム世界の女性統治者の主な給源はプトレマイオス朝であった。
 一方、インドのギリシャ人王朝ではアガトクレアを例外として、鋳造貨幣に記銘された統治者は男性ばかりであり、しばしば兜や槍のような武具を帯びた姿で描かれるのは、インドにおける圧倒的少数者であったギリシャ人の王朝はそれ自体も分裂的で、ほぼ恒常的に戦争状態にあり、統治者も戦闘能力が重視されたためと見られる。
 従って、セレウコス朝やプトレマイオス朝のように公式の女王は輩出せず、アガトクレアも公式には摂政に過ぎなかったと考えてよいであろう。実際、彼女の統治下での戦績は芳しいものではなく、夫のメナンドロス死後に始まった内戦を征することができず、ガンダーラ東部領土とパンジャーブに押し込まれている。
 通説によれば、アガトクレアの統治期間は紀元前130年から120年にかけての10年間ほどであるが、別説として彼女はより後期の紀元前110年代以降の人であり、別の王の妃であったとする説もある。

もう一つの中国史(連載第30回)

十 東北民族の興亡

 

(3)清帝国の盛衰
 明の時代に有力化した建州女真族の中から、一人の英傑ヌルハチが現れた。建州女真の部族長家に生まれた彼は当初、明の後ろ盾を巧みに得て、建州女真の統一に成功する。その基盤の上に、彼は他の女真系部族を次々に服属させつつ、1616年に後金を建国した。金の滅亡以来、およそ400年近くぶりの女真系国家の樹立であった。
 ヌルハチは組織力に長け、女真族の伝統的な社会集団を八旗制と呼ばれる軍事組織に再編して、軍事力を強化した。そうした軍事力を背景に、彼は明朝の打倒を宣言し、天下取りを目指したのである。
 志半ばで1626年に没した彼の遺志は後を継いだ息子のホンタイジ(太宗)に受け継がれ、孫の順治帝の時に至り、清は全国王朝として確立される。ここまでの展開は、北方から出たモンゴル系の元の成立過程とよく似ているが、違っていたのはその後である。
 元が漢化をほぼ拒否し、モンゴル独自の慣習に固執したのに対し、清は漢化を受け入れ、科挙制度も継承した。特に清の全盛期を演出した第4代康熙帝は自ら儒学を勉学し、著名な漢字字典『康熙字典』の編纂事業など、漢文化の集大成にも尽力している。
 康熙帝はその一方で、版図拡大にも力を入れ、モンゴルやチベット方面にも遠征し、勢力圏に収めた。彼の時代に東北部から新疆に及ぶ現代中国の領土がほぼ確定し、清は広大な覇権国家となる。
 このような超域性も元と似ているが、モンゴル民族主義を脱することができなかった元とは異なり、清は満州族と改称した支配者民族の主導性を固守しつつも、最大民族漢族をはじめ、支配下民族間の融和にも意を用いた。
 こうして、清はちょうど同時代に並存したロシアのロマノフ朝、日本の徳川幕藩体制と並び、東方の近世を担う持続的な王朝として確立されていった。しかし、康熙帝に始まり、雍正帝、乾隆帝までの全盛時代である三代130年あまりに及んだいわゆる「康雍乾盛世」が終わり、19世紀に入ると、清は帝国主義化した西洋列強からの攻勢と領土蚕食に悩まされることになる。
 この点では、末期まで「鎖国」によって体制防衛を図った徳川幕藩体制とは異なり、中途半端な半開国政策を採った清の末路はより厳しいものとなった。それも、清が異文化の受容に対して寛容であったことがあだとなったかもしれない。
 一方で、清は西洋列強の一つとして帝国主義化していった帝政ロシアのような道もとらず、国際的には中国古来の多分に儀礼的な朝貢外交の域を出ようとはせず、おおむね過去の中国王朝と同様に中国大陸を中心とした「中華帝国」の踏襲にとどまっていたことは、やがてアジアでいち早く近代化を果たし、帝国主義化していく近代日本を含めた列強に付け入られる要因となったであろう。
 とはいえ、およそ300年にわたって存続した清は、中国における異民族王朝としては最も成功を収めた体制であったことは事実である。同時に、それは中国大陸では最後の世襲支配体制ともなった。その点でも、数年後にやはり革命によって打倒されたロマノフ朝や、遡ること数十年前にある種の近代化革命によって終焉した徳川幕藩体制とも重なるのは、興味深いところである。

もう一つの中国史(連載第29回)

十 東北民族の興亡

 

(2)先駆者・金
 東北のツングース系諸民族の中でも最大勢力に成長していた靺鞨族は、渤海を建てた粟末部と黒水部の二大部族集団に分岐していたが、粟末部が支配層を構成していた渤海が10世紀前半(926年)に滅亡する時期に前後して台頭してきたのが黒水部である。
 黒水すなわちアムール河流域を拠点とする黒水靺鞨は渤海の最盛期には武力進攻してきた渤海に服属していたが、渤海が衰退するにつれ、そのくびきから解放され、自立化していった。自立後の黒水靺鞨は、かれらの自称を漢音に当てたと見られる「女真」の名で呼ばれるようになっていた。
 女真族はしばらくの間、渤海を滅ぼした当事者であるモンゴル系契丹人が建国した遼に服属していたが、遼は次第に国政が乱れ、衰退していた。そうした中、女真族の中でも遼と緊密な関係にあった完顔部の族長・阿骨打が部族の統一と軍事的組織化に成功し、1115年、遼から分離独立して金を建国した。
 その後、金は遼の支配下にあった今日の北京を含む華北の燕雲十六州の返還を宿願とする漢民族系の宋と同盟して、遼を攻め滅ぼした。ところが、燕雲十六州を取り戻した宋が忘恩的な背信行為を繰り返すことに憤慨した金の第二代皇帝・呉乞買(太宗)は二次にわたって宋に侵攻し、華北を占領、1127年、宋は敗走・南遷した(南宋の成立)。
 かくして遼、宋を相次いで駆逐し、華北を奪取した金は、東北民族が中国史上に台頭する先駆者となった。その後も華北奪回を目指す南宋と逆に南征を狙う金との間で断続的に戦争が続くが、1142年と64年の二度の和約を通じて両国関係は安定し、おおむね平和が保たれた。
 このある種の南北朝時代を通じて、征服王朝・金は次第に漢化の度を増していく。要職は女真族が占めたが、初代阿骨打が組織した謀克と謀克の集団を猛安として構成された二段階式軍事制度も形骸化していき、軍事的な弱体化が進んだ。
 そうした中で、モンゴル族に強力な指導力を備えた首長チンギス・カンが台頭する。モンゴル族も当初は金に服属していたが、チンギスは朝貢を拒否し、分離独立姿勢を鮮明にした。そして、従来金の支配下で閉塞し、しばしば反乱していた同系の契丹族を配下におさめ、金に対して征服戦争を開始する。
 金の征服はチンギスの代では完了しなかったが、チンギス時代の1215年に華北から東北の大半を奪われ、河南の地方政権に落ちていた金は、1234年までに完全に滅亡した。
 その結果、金は中国大陸全土の支配者となることなく、120年ほどで命脈を絶たれたが、女真族そのものは滅亡することなく、続く元と明の時代には次の機会まで雌伏を続けるのである。
 元の時代には東北の本拠地に残存した女真族が朝鮮半島北部にまたがって元に服属し、日本侵攻(元寇)や朝鮮征服にも兵士として動員された。元の撤退後、明の時代には小部族ごとの間接統治下に置かれた。そうした中で部族の再編が起き、やがて満州人を自称する建州女真が有力化してくる。

もう一つの中国史(連載第28回)

十 東北民族の興亡

 

(1)ツングース系民族の台頭と渤海
 中国史上の激動期となる近世・近代をもたらしたのは、征服王朝のモンゴル系元から支配権を奪還した漢民族系の明ではなく、明朝を打倒した東北地方を原郷とする女真族(満州族)系の清であったが、このような東北民族が中国史上に台頭してくるのは、さほど古いことではない。
 女真族に代表される東北諸民族はツングース系民族に属し、その言語は比較言語学上モンゴル語やテュルク語とも類縁的であるが、前二者とは言語学的な相違も大きく、その民族的な起源について定説はいまだにない。
 以前言及したように、東北地方の先史文明として遼河文明があるが、その担い手はウラル語族系と見られるので、ツングース系諸民族が東北地方の主体的勢力となったのは、遼河文明人が何らかの理由で東北地方から姿を消した後と考えられる。漢民族の側では、これらの新たな東北民族を日本の倭人や朝鮮半島人などと合わせて「東夷」と総称し、中華文明外の蛮族とみなしていた。
 ツングース系民族は早くから黒竜江やその支流である松花江流域に定着し、モンゴル族やテュルク系民族とは異なり、遊牧より狩猟と農耕の混合生活様式を主として営んだ。中国史書では弓矢の名手として粛慎の名で周代から登場する。
 一方、同じくツングース系と見られる夫余族は最も早くに部族国家を形成し、漢の時代には今日の吉林省付近に夫余国を建てる。そこからやがて朝鮮半島にまたがる強国となる高句麗を建てる分派が現われた。このように夫余族の活動は中国東北部から朝鮮半島にまたがるため、中国史と朝鮮史のいずれに組み入れるかで論争が起きるが、当時中国東北部はまだ明確に中国領土とは言い難い辺境の地であった。
 粛慎は夫余国や高句麗に服属しながら、やがて勿吉、さらに靺鞨と呼ばれる部族勢力に発展していく。7世紀、高句麗が唐‐新羅連合軍によって滅亡に追いやられた後、高句麗に服属していた靺鞨族粟末部の武将・大祚栄が高句麗の故地を基盤に震国を建て、後に渤海と改名した。
 渤海は唐を転覆した則天武后が女帝として創始した武周に対するモンゴル系契丹族の反乱に乗じた高句麗残党勢力の抵抗・靺鞨自立化闘争の中から生まれた国家であるが、初代王となった大祚栄は間もなく復旧した唐に臣従する道を選んだのであった。
 大祚栄の息子で2代国王の大武芸は独立を模索して唐と交戦したが、一時的なもので、武芸以降の歴代渤海王はいずれも唐朝から「渤海国王」として冊封される形で、唐に朝貢する属国として確定された。一方では、ある種の政治的な保険として日本とも修好し、30回を超す使節団(渤海使)を派遣している。
 渤海は唐の政治制度を忠実に模倣し、五京を備えた東北の小唐王朝とも言える半独立的な王朝として、商工業も盛んな「海東の盛国」に成長、繁栄したが、10世紀前半、宗主国・唐の滅亡からほどなくして、急速に台頭中の契丹により滅ぼされた。
 渤海は今日の中国東北部からロシア沿海地方、北朝鮮最北部にまたがるかなり広大な領域を支配したその最盛期にも唐の忠実な臣従国であり続け、決して中原に侵出しようとはしなかったため、中国史上における位置づけは辺境的であるが、靺鞨族主体による初の本格的な王国として、その後、中原を支配し、中国史の主役に躍り出る靺鞨族の強勢化の素地を提供したと言える。

パレスティナ十字軍王国史(連載第13回)

第12話 束の間のエルサレム奪還:その2

 

 前回見たように、フリードリヒ2世の外交的な手法による1229年のエルサレム奪還は10年の休戦協定の一環であったから、1239年に期限切れとなる予定であった。そこで、時の教皇グレゴリウス9世は改めて十字軍を呼びかけた。
 これに応じて1239年から41年にかけて二次の小規模な十字軍が発動された。これはしかし、大規模な戦闘を伴わず、外交工作によるところが多かったため、第七次十字軍としては数えられず、「男爵の十字軍」と通称されている。
「男爵の十字軍」と称されるのは、従来の十字軍のように欧州の君主が率いるのではなく、主にフランスとイングランドの貴族―バロン(baron)を下位爵位としての男爵と訳すのはやや問題があり、ここでは君主に対する貴族という程度の意―が参加したからである。ただし、後述のようにテオバルド1世はスペインのナバラ王位にあったが、母がナバラ王女、父はフランスの貴族シャンパーニュ伯であり、実質上は貴族に近かった。
 その最初のものは1239年8月に、スペインのナバラ王テオバルド1世が欧州の貴族を集めて組織した1500人余りでの十字軍である。最終的に地元貴族や騎士団員を含めた4000人ほどの軍勢となったが、内部対立からガザでイスラーム軍に敗北、1229年以来、エルサレムを再び失う失敗に終わった。
 ちなみに司令官を務めたナバラ王テオバルド1世は詩人・作曲家としての芸術的な才能で名高い人物であったが、政治家としては無能と評され、男爵十字軍でも、彼はのんびり詩を書いて過ごしている有様であった。
 しかし、幸運だったのは、アイユーブ朝が分裂し、内乱に陥ったことである。これは、休戦協定の当事者だったアル‐カーミルが協定期限切れ前年の1238年に死去した後、息子として彼を継いだ本拠エジプトのアス‐サリフ‐アイユーブとシリアのダマスカスの分家のアス・サリフ・イスマイルの間で熾烈な対立が起きたためである。
 この機に乗じて、十字軍はアス・サリフ・イスマイル側と同盟し、援助する条件として、エルサレムの再返還のほか、ベツレヘム、ガザ、ナブルスなどパレスティナ南部の重要都市の割譲を認めさせることに成功したのである。その結果、パレスティナ十字軍王国は、再び1187年以来で最大領域に達することになった。
 この後、イングランドの暴君ジョン王の王子でもあるコーンウォール伯リチャードが小規模な第二波の十字軍を率いて出発したが、戦闘はせず、捕虜の解放交渉と休戦協定の完結という事後的な処理が中心の十字軍というより交渉団であった。
 しかし、この領土回復は長く続かなかった。その一因として、エルサレム王を兼ねていたフリードリヒ2世がエルサレムに関心を持たず、代官を通じて1243年までは息子のコンラート2世と共同統治し、以後はコンラート2世の単独統治となったものの、コンラートもまた基本的にはドイツ王兼イタリア王として代官統治したに過ぎなかったという指導体制の弱さもあった。[お詫び]初稿で「コンラート1世」と記していたのは「2世」の誤りでした。ここに訂正し、お詫び致します。
 さらに、エジプトのアイユーブが勇猛なトルコ系のホラズム人傭兵軍団を使って反転攻勢に出たことは決定因となった。十字軍王国はダマスカスのアイユーブ分家と同盟して対抗したが及ばず、1244年7月、エジプト・ホラズム連合軍はエルサレムを包囲・陥落させた。この時、ダビデの塔でキリスト教徒数千人が殺戮された。
 こうして、一度奪還されたエルサレムは1229年から15年ほどで再びイスラーム勢力の手に落ち、この後、二度と再び十字軍王国の手に戻ることはなかった。半世紀ほど後の王国滅亡の時まで、首都は再びアッコとなる。

パレスティナ十字軍国家史話(連載第12回)

第11話 束の間のエルサレム奪還:その1

 

 パレスティナ十字軍国家は「エルサレム王国」の通称どおり首都が置かれたエルサレムを1187年にイスラーム勢力によって奪われ、北部のアッコに事実上遷都したのであったが、1229年になってエルサレムを奪還した。これに貢献した立役者が神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世であった。
 フリードリヒ2世はホーエンシュタウフェン家出身のドイツ人で、好学かつ進歩的な気質の持ち主で、中世では最も進歩的な君主と評される人物である。スイスの史家ヤーコプ・ブルクハルトに言わせれば、「玉座に位した最初の近代的人間」であった。
 信仰に対しても寛容な態度で臨み、自身はカトリックであるが、東方正教のほか、イスラーム教やユダヤ教も一定の制約のもとに許容する政策を採った。そういう皇帝であれば、十字軍にも熱心ではなく、いずれ保守的なローマ教皇との不和に陥るのも必然的だったのかもしれない。
 フリードリヒは十字軍を神聖ローマ皇帝としてのイタリア政策における教皇との取引材料くらいにしか考えていなかった。そのため、皇帝とは良好な関係にあった教皇ホノリウス3世の推挙もあり、婚姻後2年以内の十字軍発動を条件に十字軍王国の共同国王にも即位したのだが、婚姻後も十字軍の発動を延期していた。
 ホノリウスが1227年に高齢で亡くなった後、後継の教皇となったグレゴリウス9世は強硬派であり、フリードリヒの十字軍組織を強く迫った。そのため、1228年に4万の兵を率いて出撃するも、自身も含む疫病の蔓延により、エルサレムに到達せず、撤収した。
 業を煮やしたグレゴリウスはついにフリードリヒを破門とする。破門解除の交渉が難渋するなか、フリードリヒは破門の身のまま渋々十字軍に乗り出すが、この「破門十字軍」は不評で、グレゴリウスも否定的であり、重要な戦力となるはずの聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団も従わなかった。
 しかし、ここで発揮されたのがフリードリヒの交渉力である。イスラームにも寛大な彼はエルサレムを掌握していたアイユーブ朝スルターンのアル‐カーミルとは学問的な交流関係も築いていたことから、交戦せず交渉を通じてエルサレムの返還を求める方法を追求したのだった。
 対するアル‐カーミルも内紛を抱え、東から迫り来るモンゴル帝国の勢力も脅威となっていたことことから、岩のドーム(イスラーム第三の聖地)を除きエルサレムを返還することで、10年間の休戦協定を成立させたのであった。
 これはフリードリヒ2世とアル‐カーミルの首脳外交で問題を一気に解決したようなものだったが、フリードリヒがどれほどアル‐カーミルと親密だったかは、19世紀に彼の遺体が学術調査された際、遺体がイスラーム風の衣装をまとい、シャツの袖にはアラビア語でアル‐カーミルを称えたものと解釈できる「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」という文言が刺繍されていたことからも窺える。
 フリードリヒには生前からイスラームに傾倒していた様子も見られた。実際、彼はムスリム兵士に護衛され、貴重品や賓客を乗せたラクダの輸送隊や従者、楽団、踊り子を伴う移動宮廷で生活し、イスラーム君主を模したような暮らしぶりであったことから、「洗礼を受けたスルタン」と揶揄され、教皇派からも批判された。
 とはいえ、そうしたフリードリヒの「親イスラーム」姿勢のおかげもあって、エルサレム奪回に成功したことはまさに「戦わずして勝つ」外交的勝利の手本とも言えた。しかし、教皇をはじめ十字軍強硬派からは正当に評価されず、フリードリヒもイタリアでの教皇との紛争対応でエルサレムを不在にしたため、エルサレム王としては形だけのものであった。

パレスティナ十字軍王国史話(連載第11回)

第10話 ジャン・ド・ブリエンヌの波乱人生

 

 1210年に一介の騎士から十字軍王国の女王マリーと共治の形で国王となったジャン・ド・ブリエンヌの人生は波乱に満ちている。彼は元来、フランス北東部のシャンパーニュを地盤とする貴族ブリエンヌ伯の末子として生まれた。
 このブリエンヌ伯の家祖であるエンゲルベルトとゴットベルトの兄弟は10世紀半ばの山賊であり、土地を略奪し、いったんはフランク王に捕縛されるも、解放され、領主に納まることを許されたと伝えられる欧州貴族の中でも数奇な出自を持つ。
 ブリエンヌ伯家は家祖兄弟のうちエンゲルベルトの子孫で、ジャンが生まれた12世紀後半頃にはシャンパーニュの裕福な領主となっていた。ジャンの父エラール2世も第三回十字軍に参加した騎士であり、ジャンは当時の貴族の末子の慣習に従い、父から聖職者になることを望まれた。しかし本人はこれを拒否し、吟遊詩人を志して出奔したが、やがて騎士となったと伝わる。
 本来は爵位を継ぐ地位になかったが、父が1191年にアッコ包囲戦の最中、戦死したのに続き、後継者の兄も1205年にノルマン人系シチリア王国のオートヴィル王家の血を引く妻の郷里である南イタリアでシチリア王位を請求する遠征中に負傷、死去したため、その死後に生まれた甥の代理としてブルエンヌ伯領の管理者となった。
 そうした地味な立場にあったに過ぎないジャンが突如、エルサレムの共同国王に抜擢された経緯は必ずしも明らかでないが、第三回十字軍の主導者の一人で、十字軍王国支配層にもパイプを持つ強力なフランス王フィリップ2世の推挙があったことは間違いないようである。
 経緯はともあれ、1210年にジャンはアッコに到着し、親子ほども年の離れた若いマリーと婚姻した。しかし、マリーは1212年に娘のイザベラを出産した直後に死去し、共同統治はあっけなく終焉した。その後、マリーの有力な叔父で、同名のジャンがジャン・ド・ブリエンヌの廃位を企てたが、この政争に勝利したことは前回記した。
 ジャンはその後、1225年まで幼い娘のイザベルと共に国王を務め、首都エルサレムを失い、苦境にあった十字軍王国の再建に尽力した。この間、エルサレムを奪還するための第五回十字軍では最高指揮権を認められなかったものの、将軍として参戦し、エジプトのナイル河口都市ダミエッタを占領した。
 しかし、再婚したアルメニア王女の妻ステファニーの故国で王位継承抗争が起きたため、自らもアルメニア王位を主張して介入したが、間もなくステファニーと彼女との間の息子ジャンが相次いで死去する不幸に見舞われ、王位請求は断念した。
 第五回十字軍も失敗に終わったが、王国の基盤強化のため、娘イザベラの婿として、ローマ教皇ロホノリウス3世の推挙で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を選定し、婚姻をセットした。しかし、フリードリヒとジャンの義父子は、当時フリードリヒの領地であったが、ジャンもシチリア王家の流れを汲む甥が王位を主張できたシチリアをめぐり対立した末、教皇がジャンの王位継続を承認していたにもかかわらず、フリードリヒは一方的にジャンの廃位と自らの王位継承を宣言した。
 この婚姻はフリードリヒが第六回十字軍を率いることを条件としていたが、フリードリヒがなかなか実行しないため、ホノリウス後掲の教皇グレゴリウス9世はフリードリヒを破門した。しかし、彼は破門の身で第六回十字軍を強行し、エルサレムを支配していたアイユーブ朝君主アル‐カーミルと交渉してエルサレムの奪還に成功する快挙を見せた。
 ジャンは、破門十字軍の機に乗じて教皇グレゴリウス9世の支持の下、教皇軍を率いて南イタリアのフリードリヒ2世の領土に侵攻したが、フリードリヒが十字軍に成功して本拠の南イタリアに帰還すると、撤収を余儀なくされた。
 このあたりでジャンの波乱人生も幕かと思われたが、まだ先があった。ジャン自身は参加しなかった第四回十字軍はその本来の目的であるエルサレム奪還から逸脱し、ビザンツ帝国の帝位継承抗争に乗じてビザンツの首都コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を樹立していた。
 ジャンは娘婿との抗争に敗れた後、ラテン帝国へ逃れて、最初は摂政に納まった。その後、三番目の妻でカスティーリャ王国女王の娘ベレンゲラとの間に生まれた娘マリーを少年のラテン帝国皇帝ボードゥアン2世に嫁がせたうえ、1231年にはボードゥアンとの共同皇帝として帝位に就いた。
 ラテン帝国皇帝としては、1235年から36年にかけて、ビザンツ帝国の亡命政権ニカイア帝国とブルガリア帝国の連合軍に首都コンスタンティノープルを攻められたが、これを撃退し、ラテン帝国の存亡危機を救った。しかし、翌年の1237年に死去し、コンスタンティノープルのハギヤ・ソフィア大聖堂に埋葬されたとされる。
 ただし、ジャンは死の直前に無所有・清貧主義で知られるフランシスコ会に入会したとも伝えられ、これによると、ジャンは治世中にコンスタンティノープル市内のアッシジの聖フランシスコに捧げられたフランシスコ会教会に埋葬された可能性があるとされ、埋葬地も確定していない。
 いずれにせよ、ジャン・ド・ブリエンヌはほぼ無名の存在から身を起こし、パレスティナ十字軍王国とコンスタンティノープルのラテン帝国双方の君主を務めた唯一の人物となった。中世の激動期が生んだ波乱人生であった。

もう一つの中国史(連載第27回)

九 台湾の独自性と中華化

 

(3)鄭氏政権から清版図へ
 オランダの台湾統治は、インドネシア統治とは対照的に半世紀も続かず、終幕した。その要因は皮肉にも、オランダ統治下で移入された漢人の勢力増強にあった。1652年の漢人大反乱は、その予兆であった。
 これはオランダの重税にあえぐ漢人入植者による反乱事件であるが、その稚拙な計画は事前にオランダ当局に漏れていたため、短時日で鎮圧された。その過程で数千人とも言われる漢人がオランダ当局に殺戮されたと言われるが、真相は不明である。
 この事件の当時、大陸中国ではすでに明朝が滅亡し、新たに成立した満州族系の清に対する旧皇族による抵抗運動が展開されていた。そうした抵抗運動の武将となっていた鄭成功が抵抗の一大拠点を確保すべく台湾に侵入し、オランダを駆逐して1662年、ここに地方政権を樹立した。
 鄭成功は台湾に拠点を置いた福建省出身の武装商団長の父と平戸出身の日本人武家女性の母の間に生まれ、日本人の血も引く人物で、後に近松門左衛門が「国姓爺」[こくせんや]の俗称を持つ成功を主人公に史実を脚色した人形浄瑠璃『国性爺合戦』を発表したことでも知られる。
 鄭成功自身は台湾奪取の年に志半ばで没するが、後を息子の鄭経が継いで発展させた。こうして樹立された台湾史上初の漢人系政権である鄭氏政権は漢人入植者を束ねた屯田政策を基盤に大陸の集権的な官制も導入し、台湾の開発を進めたことから、現代台湾でも特に初代・鄭成功は「開発始祖」として崇敬されている。
 しかし標榜上明朝の復権を目指す亡命政権であった鄭氏政権は王朝として確立されず、世襲制の軍閥政権のまま終焉する。地位継承以来、19年にわたって執権者の地位にあった鄭経が40歳で没すると、重臣によるクーデターで鄭経の12歳の息子・鄭克塽が擁立される。
しかし彼は重臣の傀儡にすぎず、政情が安定しない中、反攻に出た清の水軍が台湾に迫ると、鄭克塽とその擁立勢力はあっさり降伏、ここに鄭氏政権は三代わずか20年余りで終焉したのであった。
  この後、台湾は清帝国の版図に編入されるも、清当局は辺境地・台湾の統治に大きな関心を示さず、大陸側の福建省の一部とした。その結果、従来にも増して福建省からの漢人の入植民が増大し、鄭氏政権の開発政策を受け継ぐ形で、半ば自治的に開発を推進していったのであった。これにより、鄭氏政権に始まる台湾の中華化は既定路線となる。

もう一つの中国史(連載第26回)

九 台湾の独自性と中華化

 

(2)オランダ統治と先住民社会の変容
 台湾島は地理的には中国大陸の島嶼部とも言えるため、早くから漢人の手が伸びても不思議はないはずだったが、中原の覇権競争に明け暮れた時代には、海洋進出は漢人の関心外であった。明朝も海禁政策を採ったため、漢人の海洋進出は澎湖諸島を限度とし、台湾には到達していなかった。
 数千年単位での伝統的定常社会が続いていた台湾が大きく変化するきっかけは、西洋列強の侵出であった。初めにやってきたのは、果たして、大航海時代を拓いたポルトガル人である。記録によると、かれらは16世紀半ばにはすでに台湾島に到達していたが、本格的な関心を示すことはなかった。
 次にやってきたのは、東インド会社を設立してアジア侵出を活発化させていたオランダ人である。インドネシア方面に足場を築いたオランダ人の到来は、当時の台湾が地政学上中国ではなく、東南アジアの延長域だったことを示してもいる。
 オランダは1622年、まず台湾に近い澎湖を占領したため、澎湖の支配権を主張する時の明朝と交戦したが、短期で講和し、オランダが澎湖を撤退する代わりにオランダの台湾支配が容認された。容認といっても、台湾に明朝の実効支配は及んでいなかったので、実質上はオランダが台湾初の全島的統治者となった。
 このようにして、1624年以降、オランダによる台湾統治が始まる。かれらは現在の台南市にゼーランディア城を築き、ここを政庁兼貿易事務所として統治した。しかし、間もなくフィリピンに侵出していたスペインが台湾に割り込みを図り、北部を占領する。オランダが最終的にスペインを台湾から駆逐したのは、42年のことであった。
 オランダの統治下では、中国大陸南部から大量の漢人労働者が移入され、プランテーション経営が試みられたので、この時期以降、漢人の台湾移住がようやく本格化する。同時に、オランダは台湾先住民の教化にも注力したが、そのやり方はお決まりのキリスト教宣教活動であった。
 ただ、文字を持たなかった台湾先住民にローマ字を伝え、しかもオランダ語の強制ではなく、現地語のローマ字表記を基本とする比較的リベラルな教化方針を採ったことから、内発的な文明開化も起きた。特に平地部を拠点としていた平埔族はいち早く開化し、部族語(新港語)をローマ字表記した「新港文書」と呼ばれる一群の契約文書類を残している。
 とはいえ、オランダ統治は典型的な植民地支配であり、先住民は租借の形で土地を奪われ、開化が進んだ平埔族を中心にその民族性も喪失していった。特に漢人の大量移入は血統的にも台湾社会を大きく変革し、台湾が中華化していく歴史的な一大転換点となったであろう。

もう一つの中国史(連載第25回)

九 台湾の独自性と中華化


(1)台湾先史
 現在、台湾は大陸中国とは別の統治主体が支配しているが、広い意味での中華圏の一部である。しかし、台湾が中華圏に属するようになったのは近世以降のことであり、それ以前は中華圏からは切り離された離島であった。
 元来、台湾にはマレー語などとも同系のオーストロネシア語族に属する言語を持つ諸民族が割拠していた。この先住諸民族のうち最大のアミ族を初めとする16民族は台湾政府から「原住民」として公認されている。かれらの話す言語—台湾諸語—は、オーストロネシア語族の最も古い形を残しているとされ、この語族の原郷は台湾にあったとも推定できるところである。
 台湾先住民族は公認16民族以外にも、文化風習ごと多岐に分化しており、17世紀にオランダ人が到来し、台湾を「発見」するまでは、統一国家を形成することなく、部族ごとの伝統社会を維持していたものと見られる。
 かれらがいつから台湾に居住するようになったかは明らかでないが、紀元前4000年ないし3000年頃に大坌坑[だいふんこう]文化と呼ばれる新石器文化が台湾北部に現われる。この文化は急速に台湾全土に広がり、そこから派生文化が各地で定着していくので、この文化の担い手こそ台湾先住民の祖先集団だったと推定される。
 この文化はそれ以前の台湾の先史文化とは断絶があるため、その担い手民族はおそらく外来者であり、かれらの原住地は中国大陸南部と見られる。このことと、近年の比較言語学的研究でオーストロネシア語族と中国語が含まれるシナ・チベット語族の内的関連性が明らかにされてきたことを考え合わせると、台湾先住民及び漢民族の基層的な系譜関係も想定することができる。
 ただ、台湾の先史文化が大陸の黄河文明圏のような形で王朝形成に向かわなかったのは、漁業に依拠した隔絶された離島では農耕が発達せず、治水事業をベースとする中央権力も必要とされなかったことによるものであろう。
 ある意味では文明化を必要としないまま、極めて長きにわたって定常的な先史社会を維持し得たのは、台湾の地理的な環境条件によるものであった。