歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

パレスティナ十字軍王国史話(連載第3回)

二 女王メリザンド

 
 パレスティナ十字軍王国は「王国」とはいえ、実態はフランス貴族の在外領地に近いものであったため、王権の継続性の担保が弱く、たびたび王統が変わっている。男性権力も脆弱であり、しばしば実権を持つ共治女王を輩出した。その最初の例が、メリザンドである。
 その点、本国フランスではゲルマン時代の慣習法サリカ法により王の継承権は男子に限定されていたが、パレスティナではそうした慣習も重視されず、より実際的な独自の慣習が形成されていった。
 メリザンドは、第2代王ボードゥアン2世の長女として、もう一つの十字軍国家エデッサに生まれた。ボードゥアン2世には男子がいなかったため、サリカ法によらず、メリザンドを後継者に指名した。そのため、彼女は中東生まれの最初のパレスティナ十字軍王国君主となる。
 ただし、フランス本国の有力貴族で十字軍騎士でもあったアンジュー伯フルク5世を婿に迎えることが条件であったため、1131年にボードゥアン2世が死去した後は、メリザンドとフルクの共同統治となった。フルクは再婚かつ完全な政略婚であったことや、フルクがアンジュー出身の側近を贔屓したせいで、夫婦仲は険悪であったとされる。
 この夫婦間の争いは、元来メリザンドの王位継承に否定的だったフルクがメリザンドの不倫疑惑を持ち出して糾弾した時に頂点に達し、1134年にはメリザンド支持派の土着貴族層が宮廷クーデターを企てた。このクーデターはメリザンド派勝利に終わり、以後、フルクの権勢は衰えた。彼は1143年、狩猟中の事故で急死した。
 同じ年、出身地エデッサがイスラーム教徒軍によって陥落したのを機に、メリザンドは第二回十字軍を呼びかけた。結果は敗北だったが、国内政策に関して、メリザンドは有能な統治者として高評価を得ている。
 1143年には息子のボードゥアン3世と改めて共同戴冠したが、王国の統治領域を母子間で分割する決定に不服のボードゥアン3世が母の領地に侵攻、メリザンドが一時退避する事態となった。この珍しい母子内戦は、教会の仲裁によってメリザンドが王位を退き、摂政となることで和解し、以後はメリザンドが1161年に死去するまで平穏であった。
 1153年にメリザンドが退位し、ボードゥアン3世が単独国王となって以降、1205年までフルクの子孫が王位を継いだアンジュー朝は、王国史上では最長の王統となったことにも、晩年の摂政時代を含めたメリザンドの優れた長期執政が寄与したかもしれない。
 なお、フルク5世の孫のヘンリー(初婚で生まれた息子の子)が1154年にイングランド王ヘンリー2世として推戴され、プランタジネット朝が開かれたため、結果的にアンジュー朝時代のパレスティナ十字軍王国は遠く離れたイングランド王国と縁続きとなった。

弾左衛門矢野氏列記(連載第5回)

五 矢野弾左衛門集村(1698年‐1758年)

 
 4代目弾左衛門集久が死去した後、公式には孫の集村(幼名・浅之介)がわずか12歳で襲名したことになっているが、浅之介には父・吉次郎がいた。吉次郎は正式の襲名前に死亡したものと見られているが、死亡年も法名も不詳である。あたかも記録から抹消されたような扱いである。
 その背景として、単に正式の襲名前に病死したと見るのが素直ではあるが、あるいは自害など公表を憚る死亡を遂げていたり、死亡していないとすれば不行跡、病弱等による廃嫡といった裏事情も想定できるかもしれない。
 いずれにせよ、弾左衛門江戸町奉行から襲名が正式に認証されて就任するという慣例からすれば、正式に襲名していない吉次郎を5代目に数えることはできないはずであるが、近年の通説は彼を5代目とし、集村を6代目とみなしている。しかし、ここでは両論併記の形で集村を5代目(または6代目)と表記し、以後の各歴代についても同様とする。―正式の襲名前でなく、その直後に死亡した証拠史料が新たに発見されれば別である。

 
 さて、祖父から一代飛び越えた代襲相続の形で弾左衛門を襲名した集村は就任時わずか12歳の子どもであったから、当然当初は職務代行者を必要とした。やがて若き弾左衛門として自ら職務を行うようになった集村が直面したのは、配下にあるひにん頭・車善七との抗争であった。
 車善七は江戸に数人いたひにん頭の中でも最有力で、弾左衛門と同様、江戸時代最初期にひにん頭となって、代々車善七を襲名する慣例であった。苗字を名乗らないひにん頭の中で唯一車という希少姓を名乗っていた事情は不明である。
 一説には、車善七の祖は常陸戦国大名佐竹氏の家老だった車義照(別名・斯忠[つなただ])とされる。斯忠は関ヶ原の戦いに際して反徳川派に立ち、佐竹氏が西軍寄りの曖昧な態度をとることを主導したが、戦後処理で佐竹氏が長年の本貫常陸から出羽に移封させられたことを不満として反乱を起こすも失敗、処刑された。
 その後、義照の遺子・善七郎が父の仇を討つべく江戸城に潜入し、二度にわたり家康暗殺を図るも失敗、同情した家康からひにんに身を落とすことを条件に赦免され、初代の車善七となったとする逸話がある。
 あまりに劇的なため歴史家はこれをフィクションとみなすが、この逸話の出典は高崎藩の郡吏・大石久敬[ひさたか]の農政書『地方凡例録』である。大石は学者肌で同書も定評ある地方書であるから、車善七の由来説も完全なフィクションとは断じ難い。
 実際、車善七は誇り高く、何かとひにんの大量動員を命じてくる弾左衛門の支配から脱しようと訴訟を起こしてまで抗争したことからしても、武家出自という可能性もなくはないのではなかろうか。
 その車善七と矢野弾左衛門の抗争は、享保四年から九年にかけて展開された。時は8代将軍吉宗の享保改革の渦中で、南町奉行大岡忠相が名声を得ていた時代である。抗争の詳しい経緯を書き記すことはしないが、訴訟で示された幕府の立場は、弾左衛門が動員できるひにんの人数を制限したうえで、車善七の弾左衛門支配離脱は認めないというものであった。
 先代の時代に当道座や役者の弾左衛門支配離脱は認めた幕府であったが、身分秩序維持のため、地方長吏(えた)については認めなかったように、ひにんについても弾左衛門支配離脱を認めることはしなかったのである。
 しかし、車善七側はこれを不服とし、慣例の義務的儀礼であった弾左衛門への年始挨拶を拒否したことで、弾左衛門から逆提訴されるも敗訴、罰として配下の組頭三人が処刑されるという事態となった。
 この後、ひにんたちは町で火付けを繰り返すことで抵抗を示した。このひにんの火付けは百姓一揆、打ちこわしと並ぶ江戸時代の三大民衆反乱の一つと言えるもので、享保改革で江戸の火災対策が整備される一つの契機ともなった。
 しかし、享保九年(1724年)、ひにん総勢226人を遠島刑とする大量処罰判決が言い渡され、ひにんの抵抗はひとまず収束した。ちなみに、言わば検察役を担った弾左衛門の起案に基づき、この判決を下したのは大岡であった。
 この車善七抗争を乗り切った後の集村は大過なく職務に専念したようであり、寛延元年(1748年)には跡を息子の勝之助に譲って隠居している。弾左衛門が生前隠居するのはこれが初例であるが、集村が生前隠居を選んだのは、自身の襲名が幼年での祖父からの代襲という異例の形となり、困難を招いたことを反省してのことかもしれない。

松平徳川女人列伝(連載第12回)

十八 広大院(1773年‐1844年)

 8代将軍徳川吉宗享保の改革は大奥にも及び、その職員数の削減はもとより、妻妾の数や大奥の隠然たる政治的影響力もそがれることになった。そのため、吉宗からその子・家重、孫の家治に至る三代の妻妾からは特筆すべき人物は出ていない。この時代の将軍妻妾は子孫を産む役割しか期待されていなかったように見える。
 そのことは、後の将軍家となる御三卿・一橋家の祖・徳川宗尹を産んだ吉宗側室の深心院(1700年‐1721年)、同じく吉宗側室で、御三卿田安徳川家の祖・徳川宗武を産んだ本徳院(1696年‐1723年)、さらには9代将軍家重の側室で、三つ目の御三卿となる清水徳川家の祖・徳川重好を産んだ安祥院(1721年‐1789年)など、吉宗裔の新たな分家となる御三卿の家祖を産む側室が輩出した点に見て取れる。

 
 大奥が再び大規模化し、政治的な影響力も擁するようになったのは、まさに御三卿一橋家から出た第11代将軍徳川家斉の時代からである。妻妾数16人とも言われる家斉の時代、にわかに巨大化した大奥の長となったのは、異例の正室(御台所)・広大院であった。
 広大院が異例なのは島津藩主・島津重豪の娘(幼名・茂姫)であったことである。第3代家光以来、将軍御台所は格式上、公家や宮家から迎えることが慣例であったところ、初めて外様大名からの輿入れであった。しかも、関ヶ原の戦いでは敵軍に属した外様代表格の島津家出身である。
 ただし、茂姫はすでに3歳にして家斉(幼名・豊千代)と許嫁の関係にあり、江戸で家斉と共に養育されており、突然決まった縁談ではなかった。これは、正室・保姫が一橋家出身であった重豪と、家斉の実父にして保姫の弟でもあり、家斉時代の隠然たる実力者となる一橋家家長・徳川治済の計らいによるものかもしれない。
 茂姫が家斉の将軍就任に伴い御台所となると、実父の島津重豪外様大名ながら、将軍岳父として実力を強め、彼女自身も、家斉の数多い側室が生んだ子女を自身の養子として扶養し、大奥の長として振舞った。
 ちなみに、自身は第2代将軍秀忠の正室で同じく武家出自の崇源院以来となる男子・敦之助を産んだが、世子は側室・お楽の方が先に産んだ敏次郎(後の12代将軍家慶)と定められていたため、いったん無嗣絶家していた清水徳川家を継いだが、4歳で夭折した。
 茂姫は形式上、五摂家近衛家の養女となり、近衛寔子(ただこ)と改名していたとはいえ、薩摩藩との関わりは続いており、実母の実家である市田家の家格を高め、市田氏を通じて藩政にも介入するなど、江戸と薩摩をつなぐ存在として権勢を持った。
 彼女は家斉が隠退して大御所となってからも大御所の正室たる「大御台」としてなお大奥で実権を保持した。さらに家斉死後、落飾して広大院と号してからも、朝廷から従一位を授けられて、生涯権勢を保った。
 このように、島津氏出身の正室が登場し、しかも幕末の天保時代まで長く権勢を保ったことは、薩摩藩の権威を高め、やがては薩摩藩が倒幕運動の中軸となる路線を、直接ではないにせよ、用意する伏線となったとも考えられる。