五 遊牧民族の時代Ⅱ
(2)遼と西夏
宋の成立により漢民族が再び中原の覇権を奪回したように見えたが、宋の覇権は初めからカッコ付きのものであった。というのも、北方には遼が睨みを利かせ、やがて西方にもチベット系タングート族の建てた西夏が台頭してきたからである。
華北の漢民族は宋から切り離されて遼の支配下に置かれたが、遼は旧鮮卑族系国家と異なり、伝統的な遊牧民社会の慣習を維持しつつ、農耕系の漢民族社会は漢制によって支配するという一国二制度戦略を採用した。このような二元的な支配体制は後のモンゴル帝国によっても参照された。
漢民族にとっては遼に奪われた燕雲十六州の奪還が民族回復の宿願であり、後周から宋へと引き継がれる課題となったが、宋では文官優位の文治主義により軍事的な弱体化が進んでいたため、1004年、大軍をもって侵攻してきた遼との間で和平を結び、国境の確定と多額の財貨の提供などを約束させられた。
遼は宋からの事実上の経済援助を元手に北アジア最大の帝国として発展していくが、こちらも次第に豪奢な漢化が進み、騎馬遊牧国家としての国力が弱まる中、東北の被支配民族であった女真族が分離独立し、金を建国した。
金を粉砕しようとした遼はかえって反撃を受け大敗、これを見た宋は金と同盟して遼を挟撃し、最終的に1125年、遼は金により滅亡に追い込まれた。
その際、王族の耶律大石に率いられた一派は中央アジアまで敗走し、現在のキルギスの地に西遼を建国し、故地回復を目指すも果たせず、1218年にはモンゴル帝国によって征服され、滅亡した。
一方、西夏(自称は大夏)を建てたチベット系遊牧民タングート族は当初は突厥沙陀部と同様に唐に服属し、黄巣の乱では反乱鎮圧に功績を上げ、藩鎮軍閥としてのし上がる。唐滅亡後は宋に服属したが、部族長・李元昊[りげんこう]の時、独立国家を建て、元昊が1038年に初代皇帝となった。
西夏は漢風の制度も必要に応じて取り入れたが、遼と異なり、民族独自の慣習を重視する民族主義的な政策を追求した。李元昊が発したタングート独自の髪型を強制する禿髪令はその象徴である。
建国初期の西夏は北方の遼と同盟して宋を挟撃する政策を採るが、1044年に和議を結び、遼と同様に宋から多額の財貨を引き出すことに成功した。その後は、宋・遼との鼎立関係の中で、微妙な均衡を保持していくが、東方から金が台頭すると、金に服属する政策に転じた。
この頃になると、西夏は政治腐敗等から国力の低下が目立っていたが、新たに北方から台頭してきたモンゴルに服属して国家の延命を図った。しかし13世紀に入ると、膨張主義的なモンゴルによる数次にわたる西夏征服作戦の末、1227年に滅ぼされた。