Ⅳ アガトクレア摂政王太后
インドのギリシャ人王朝の最盛期を一代で築いたメナンドロス王が死去した時、後継者の王子ストラト1世はまだ幼なく、後見役として生母のアガトクレア王妃が摂政王太后として統治の実権を握ったと考えられている。
その根拠となるのは、貨幣である。インドのギリシャ人王朝に関してはまとまった体系的な史書が全く存在せず、王名やその在位時期も王の肖像を刻んだ鋳造貨幣が主要な情報源となる。
その点、アガトクレアに関しては表面に単独で肖像が刻まれ、ギリシャ語の銘文で「女王」と記された貨幣を見つかっていることから、摂政当時は非公式ではあれ「女王」とみなされていたことも窺わせる。
他に、子息のストラト1世とのツーショットで刻まれた貨幣もあり、公式的には摂政であったと見られるが、ストラト1世が統治年齢に達した紀元前120年頃を境に貨幣から消えることから、摂政を退任し、ストラト1世の親政に移行したものと見られる。
アガトクレアが単独で登場する初期の貨幣では彼女を「神のような女王アガトクレイア」「女王アガトクレイア、法の救世主であり信奉者」などと称賛する銘文が刻まれていることから、女王とみなされ崇敬されていたことが窺える。
こうしたことから、彼女はヘレニズム世界ではシリアのセレウコス朝唯一の女王クレオパトラ・テアやエジプトのプトレマイオス朝では最後のクレオパトラ7世をはじめ、複数輩出した女王らと並び、ヘレニズム世界における女性統治者の一人に位置づけられる。
ちなみに、アガトクレアより先行するセレウコス朝の女王クレオパトラ・テアはプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス6世とクレオパトラ2世の娘で、エジプトからシリアのセレウコス朝に嫁ぎ、相次いで3人のセレウコス朝国王の王妃となった人物であり、ヘレニズム世界の女性統治者の主な給源はプトレマイオス朝であった。
一方、インドのギリシャ人王朝ではアガトクレアを例外として、鋳造貨幣に記銘された統治者は男性ばかりであり、しばしば兜や槍のような武具を帯びた姿で描かれるのは、インドにおける圧倒的少数者であったギリシャ人の王朝はそれ自体も分裂的で、ほぼ恒常的に戦争状態にあり、統治者も戦闘能力が重視されたためと見られる。
従って、セレウコス朝やプトレマイオス朝のように公式の女王は輩出せず、アガトクレアも公式には摂政に過ぎなかったと考えてよいであろう。実際、彼女の統治下での戦績は芳しいものではなく、夫のメナンドロス死後に始まった内戦を征することができず、ガンダーラ東部領土とパンジャーブに押し込まれている。
通説によれば、アガトクレアの統治期間は紀元前130年から120年にかけての10年間ほどであるが、別説として彼女はより後期の紀元前110年代以降の人であり、別の王の妃であったとする説もある。