歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第17回)

五 遊牧民族の時代Ⅱ

 

(2)遼と西夏
 宋の成立により漢民族が再び中原の覇権を奪回したように見えたが、宋の覇権は初めからカッコ付きのものであった。というのも、北方には遼が睨みを利かせ、やがて西方にもチベット系タングート族の建てた西夏が台頭してきたからである。
 華北漢民族は宋から切り離されて遼の支配下に置かれたが、遼は旧鮮卑族系国家と異なり、伝統的な遊牧民社会の慣習を維持しつつ、農耕系の漢民族社会は漢制によって支配するという一国二制度戦略を採用した。このような二元的な支配体制は後のモンゴル帝国によっても参照された。
 漢民族にとっては遼に奪われた燕雲十六州の奪還が民族回復の宿願であり、後周から宋へと引き継がれる課題となったが、宋では文官優位の文治主義により軍事的な弱体化が進んでいたため、1004年、大軍をもって侵攻してきた遼との間で和平を結び、国境の確定と多額の財貨の提供などを約束させられた。
 遼は宋からの事実上の経済援助を元手に北アジア最大の帝国として発展していくが、こちらも次第に豪奢な漢化が進み、騎馬遊牧国家としての国力が弱まる中、東北の被支配民族であった女真族が分離独立し、金を建国した。
 金を粉砕しようとした遼はかえって反撃を受け大敗、これを見た宋は金と同盟して遼を挟撃し、最終的に1125年、遼は金により滅亡に追い込まれた。
 その際、王族の耶律大石に率いられた一派は中央アジアまで敗走し、現在のキルギスの地に西遼を建国し、故地回復を目指すも果たせず、1218年にはモンゴル帝国によって征服され、滅亡した。
 一方、西夏(自称は大夏)を建てたチベット遊牧民タングート族は当初は突厥沙陀部と同様に唐に服属し、黄巣の乱では反乱鎮圧に功績を上げ、藩鎮軍閥としてのし上がる。唐滅亡後は宋に服属したが、部族長・李元昊[りげんこう]の時、独立国家を建て、元昊が1038年に初代皇帝となった。
 西夏は漢風の制度も必要に応じて取り入れたが、遼と異なり、民族独自の慣習を重視する民族主義的な政策を追求した。李元昊が発したタングート独自の髪型を強制する禿髪令はその象徴である。
 建国初期の西夏は北方の遼と同盟して宋を挟撃する政策を採るが、1044年に和議を結び、遼と同様に宋から多額の財貨を引き出すことに成功した。その後は、宋・遼との鼎立関係の中で、微妙な均衡を保持していくが、東方から金が台頭すると、金に服属する政策に転じた。
 この頃になると、西夏は政治腐敗等から国力の低下が目立っていたが、新たに北方から台頭してきたモンゴルに服属して国家の延命を図った。しかし13世紀に入ると、膨張主義的なモンゴルによる数次にわたる西夏征服作戦の末、1227年に滅ぼされた。

もう一つの中国史(連載第16回)

五 遊牧民族の時代Ⅱ

 

(1)突厥沙陀部の短い覇
 鮮卑系の唐が安史の乱以降衰退し、黄巣の乱の渦中で907年に滅亡すると、中国は再び五代十国と呼ばれる内戦状態に突入する。五代最初の後梁漢民族系だが、黄巣反乱軍武将から寝返った朱全忠が創始した同国は正統政権として認知されず、早期に没落した。
 その後梁を打倒したのが、後唐であった。後唐突厥沙陀部の軍閥によって建てられた王朝である。突厥はテュルク系遊牧諸民族の始祖集団であり、匈奴支配下から自立し、6世紀には現モンゴル国のハンガイ山脈に比定されるウテュケン山を本拠に大帝国を築くが、間もなく東西に分裂した。
 その西突厥から出た沙陀部は安史の乱後、唐に帰属し、唐朝軍閥として地位を確立したうえ、唐末混乱期に反乱軍の鎮圧で功績を上げた。唐の後継者を自認した後唐は一時、華北を平定し、統一王朝化も窺うが、第二代で名君と謳われた明宗の短い治世の後は衰退し、滅亡した。
 明宗の女婿であった石敬瑭―沙陀部に同化したイラン系のソグド人とする説あり―によって建てられた後継の後晋後漢、さらに十国の一つに数えられる北漢はいずれも沙陀部系国家であったが、長続きすることはなかった。
 こうして唐末に台頭した沙陀部が覇権を確立できなかった要因としては、養子相続に依存する慣習が一族内紛を招く脆弱な体制を克服できなかったこと、同時期に華北では契丹族が台頭し、軍事的に優勢な契丹に押さえ込まれたことが挙げられる。
 その契丹族鮮卑と同様に東胡から派生したとされる遊牧民族で、後に台頭するモンゴル族とも同系と見られる民族である。その活動は南北朝時代の5世紀頃から活発になるが、統一国家を建てるのは916年、耶律氏の長・耶律阿保機がそれまでの八部族連合を統合して契丹国を樹立したのが最初である。
 契丹国は第二代耶律堯骨[やりつぎょうこつ]の時、後唐の内紛に介入してその支配下にあった華北の燕雲十六州の割譲を受け、領土拡張に成功した。その後、後唐を継いだ後晋をも滅ぼした契丹華北の覇権を得て、国号も漢風に遼とした。
 しかし、遼もかつての隋唐のように完全な覇権を握ることはできず、五代十国の混乱は、五代国家最終にして漢民族系・後周の軍閥から出た趙匡胤によって創始された宋によって、ひとまず止揚されるのである。趙匡胤も父が後唐の近衛軍人出身であり、突厥の血を引くとする説もあるが、そうだとしても漢化して久しい一族出身であろう。

File:日本の女性君主たち(連載第3回)

Ⅰ 古代の女性君主たち

 

二 古墳時代の女性君主たち

 邪馬台国が史料上から姿を消した後、日本は各地で地方王権が割拠し、大型墳丘墓が盛んに築造される古墳時代に入るが、この時代の首長級墳墓からはしばしば女性の人骨が出土している。その割合は、3割から5割ともいう。その全員が地域王権の女王たる首長なのか、あるいは首長の妻や娘といった王族女性なのかは不明であるが、少なくとも埋葬儀礼上は首長に準じた厚葬待遇を受ける女性が少なくなかったことはたしかであろう。現時点では、そうした地域王権の女王名は判明していない。

 

 一方、『日本書紀』及び『古事記』で唯一、皇后ながら天皇と同格の扱いで一章を割いてその事績を紹介されているのが神功皇后である。もっとも、これはまだ天皇・皇后の称号も制度も存在しなかった大和王権時代のことであるので、皇后称号は後から追贈されたものにすぎないが、正史上、君主に準じた扱いを受けている唯一の「皇后」であることに変わりない。
 ただし、その在位年代については『日本書紀』の本文では朝鮮との関わりで4世紀末から5世紀初頭が同時代として扱われながら、注記では同時代として3世紀代の中国の元号が示されるなど、叙述に混乱が見られる。後述するように、今日では神功皇后を架空人物とする説が有力であるため、史書の叙述の混乱もそうした創作の痕跡を示すものかもしれない。

 

神功皇后(生没年不詳:半伝承的存在)

 

(ア)登位の経緯
伝第14代仲哀天皇が九州の抵抗勢力である熊襲征伐の途上で急死したため、その遺志を継ぐ形で、「皇后」の地位のまま、実質的な君主として政治・軍事の実権を掌握した。

 

(イ)系譜
伝第9代開化天皇の玄孫・気長宿禰王[おきながのすくねのみこ]と、新羅系渡来人とされる天之日矛[あめのひぼこ]の子孫・葛城高顙媛[かずらきのたかぬかひめ]の間に誕生したとされる。本名は気長足姫尊[おきながたらしひめのみこと]。父方の気長(息長)氏は近江を本貫地とする豪族であり、おそらくは琵琶湖水系を支配し、琵琶湖に注ぐ天野川流域に息長古墳群を残している。ただし、息長古墳群の築造年代は5世紀後半から6世紀であり、史料上の神功皇后の年代とは符合しない。

 

(ウ)事績
日本書紀』によれば、実権を掌握した後、まず仲哀天皇熊襲征伐を継承、成功させた後、神託に基づき、朝鮮半島新羅征服事業に向かった。その際、皇后は身重の体で男装し、自ら兵団を率いて新羅へ親征した。その結果、新羅の征服に成功し、なおかつ百済高句麗も戦わずして服属したため、朝鮮三国すべてを支配下に置き(いわゆる三韓征伐)、朝鮮統治機関として内官家屯倉[うちつみやけ]を設置した。凱旋帰還後、後の応神天皇となる誉田別皇子[ほむたわけのみこ]を出産し、皇太后・摂政となる。69年間在位し、100歳で崩御した。

 

(エ)後世への影響
上掲の三韓征伐説話のゆえに、息子とされる応神天皇とともに八幡三神の祭神たる一柱として、とりわけ武家社会ではある種の軍神として篤く信仰されるようになる。その他、宇佐神宮住吉大社をはじめとする全国各地の主要神社でも祭神として神格化された。さらに、戦前の皇国史観の時代には重要な実在人物として歴史教育において重視され、三韓征伐は当時の日本による韓国併合・植民地支配を正当化する古代の史実としても扱われた。しかし、戦後は皇国史観の否定により評価が一変し、架空人物説が有力化した。とはいえ、宮内庁では実在人物とみなし、『日本書紀』で陵墓として示された狹城盾列池上陵[さきのたたなみのいけのえのみささぎ]に該当する古墳として、奈良県奈良市山陵町の五社神[ごさし]古墳(4世紀末葉の前方後円墳、墳丘長267m)を神功皇后陵に治定し、学術的な発掘調査を認めない天皇陵並みに管理している。

 

※備考
 朝鮮史料の『三国史記』には、3世紀から5世紀にかけて倭国新羅をたびたび侵攻する様子が叙述されており、その一部は『日本書紀神功皇后紀の内容と符合していることは確かであるが、侵攻作戦を指揮していた倭国の君主の名は記されていない。また、三韓征伐の根拠として挙げられてきたのは、高句麗好太王碑文に記された「倭、辛卯年(391年)を以って、来たりて海を渡り、百残(百済)・■■・■羅らを破り、以って臣民と為す」(■は欠字)という一文である。しかし、神功皇后に該当する人物の名は記されていない。
 なお、神功皇后が出自したとされる息長氏はしばしば后妃を出した有力な姻族であり、天武天皇が定めた豪族序列・八色の姓でも最上位の真人[まひと]に叙せられている事実は、架空人物説に立った場合、人物造型上、神功皇后が息長氏出自とされたことと関連しているかもしれない。