歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

〆私家版松平徳川略紀

私家版松平徳川実紀(連載最終回)

二十七 徳川家達(1863年‐1940年) 通常の徳川史は最後の将軍15代慶喜をもって閉じられるが、明治維新後、華族(公爵)の身分を与えられて存続した近代徳川家の祖と言うべき人物として徳川家達〔いえさと〕を無視するのは正当でない。 家達が出た…

私家版松平徳川実紀(連載第23回)

二十六 徳川慶喜(1837年‐1913年) 徳川慶喜は本来は水戸徳川家の当主・徳川斉昭の七男として生まれたが、12代将軍家慶の命により一橋家の養嗣子となり、一橋家当主を継いだ。英明の評判の高かった慶喜は最終的に将軍に就任する以前、二度将軍候補…

私家版松平徳川実紀(連載第22回)

二十五 松平容保(1836年‐1893年) 松平容保〔かたもり〕は、元来尾張藩支藩の美濃高須藩主の六男として生まれたが、かつて2代将軍秀忠の庶子保科正之が興した会津松平家の養嗣子となり、会津藩主を継いだ。血統上は水戸徳川家から高須藩主家を養子…

私家版松平徳川実紀(連載第21回)

二十三 徳川家茂(1846年‐1866年) 先代13代家定は病弱で実子もなかったため、存命中から後継者をめぐり派閥抗争が勃発していた。それは家定まで三代続けて将軍を出した一橋家の徳川慶喜を推す慶喜実父の水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派と、紀州藩主・…

私家版松平徳川実紀(連載第20回)

二十二 徳川家慶(1793年‐1853年)/家定(1824年‐1858年) 家慶は11代将軍家斉の次男であったが、兄が夭折したため、将軍後継者となった。ただ、最初の4年は父の家斉が大御所として君臨したため、傀儡の状態であった。父が死去するや、…

私家版松平徳川実紀(連載第19回)

二十 徳川治済(1751年‐1827年) 徳川治済〔はるさだ〕は、御三卿の一つである一橋家の家祖・徳川宗尹の四男であったが、二人の兄が相次いで福井藩主家の養子となり、福井藩主に転出したことから、一橋家の2代目当主となった。 趣味道楽の世界に遊…

私家版松平徳川実紀(連載第18回)

十九 松平定信(1759年‐1829年) 10代将軍家治死去から間を置かずに田沼意次が追放されると、入れ替わりの形で翌年、老中首座・将軍補佐として新たな幕政指導者となったのが、松平定信であった。 彼は当時、白河藩主であったが、元来は田安徳川家…

私家版松平徳川実紀(連載第17回)

十八 徳川家治(1737年‐1786年) 徳川家治は父の9代将軍家重が重度の障碍者であったのとは対照的に、幼少時から聡明とうたわれ、祖父の8代将軍吉宗の期待が高かった。吉宗が家重後継に固執したのは、孫の家治への期待からという説もあるほど祖父の…

私家版松平徳川実紀(連載第16回)

十六 徳川宗武(1716年‐1771年) 徳川宗武は8代将軍吉宗の次男で、9代家重の異母弟に当たる。家重の項で述べたとおり、家重には重度の障碍があったことから、当初は宗武後継を主張する勢力も強かった。ことに吉宗時代の老中・松平乗邑〔のりさと〕…

私家版松平徳川実紀(連載第15回)

十五 徳川家重(1712年‐1761年) 徳川家重は、先代8代将軍吉宗の長男として生まれたが、おそらくは小児麻痺による障碍のために言語が不明瞭であった。そのため、健常者だった弟の宗武を後継に推す声が強く、後継者問題が発生した。この問題は長期政…

私家版松平徳川実紀(連載第14回)

十四 徳川吉宗(1684年‐1751年) 享保元年(1716年)に7代将軍徳川家継が夭折したことで、ついに2代将軍秀忠ラインの徳川宗家は断絶した。そのため、御三家の中で将軍位継承権を持つ尾張藩または紀州藩から後継者を出す時がきた。 当時政権の…

私家版松平徳川実紀(連載第13回)

十三 徳川家宣(1662年‐1712年)/家継(1709年‐1716年) 徳川家宣は3代将軍家光の孫で、先代将軍綱吉の甥に当たるが、綱吉に男子継承者がなかったことから、甲府藩主だった家宣が後継者に決定した。元来後継候補としては、綱吉の長女が嫁…

私家版松平徳川実紀(連載第12回)

十二 徳川綱吉(1646年‐1709年) 徳川綱吉は、3代将軍家光の四男で、当初は分家して館林藩主となるが、異母兄の先代将軍家綱に実子がなかったため、家綱の死の直前に養子となり、後継指名を受けた。 綱吉は5代将軍に就任するや、まず先代の側近者…

私家版松平徳川実紀(連載第11回)

十一 徳川家綱(1641年‐1680年) 徳川家綱は3代将軍家光の側室との間に生まれた長男であったが、比較的遅く出来た子であったため、父死去を受けて将軍に就任した時は、まだ10歳であった。幼少の身で将軍位を継承できたのは、父の代までに幕府の権…

私家版松平徳川実紀(連載第10回)

十 徳川家光(1604年‐1651年) 徳川家光は前将軍・秀忠の次男であったが、兄が夭折したため、事実上は長男格であった。家光の30年近い治世の最初の三分の一は父・秀忠が大御所として後見した。父が寛永九年(1632年)に死去して以降は、単独統…

私家版松平徳川実紀(連載第9回)

八 徳川頼宣(1602年‐1671年) 徳川家康の晩年に生まれた御三家家祖三兄弟の中でも、歴史結果的に最も重要なキーパーソンとなるのが、紀伊徳川家家祖・頼宣〔よりのぶ〕である。彼は家康の十男として生まれ、初め水戸に所領を与えられるが、駿府転封…

私家版松平徳川実紀(連載第8回)

七 徳川秀忠(1579年‐1632年) 徳川秀忠は家康の三男であったが、長兄・信康は秀忠が誕生した年に素行不良等の理由で父の命により切腹し、次兄の秀康(越前松平家家祖)は政略から豊臣氏、次いで結城氏の養子に出されたため、三男の秀忠に将軍位が転…

私家版松平徳川実紀(連載第7回)

六 徳川家康(1543年‐1616年) 今さら言うまでもない徳川宗家の創始者である。彼は先代松平広忠の唯一の男子として生まれたが、彼が生まれた時期の松平氏は歴史上最も苦境の中にあった。広忠の項でも述べたとおり、幼少の家康は今川氏の人質として移…

私家版松平徳川実紀(連載第6回)

五 松平広忠(1526年‐1549年) 松平徳川氏の全史を通じて、この人ほど薄幸の当主はいなかっただろう。広忠は父の清康が守山崩れで不慮の死を遂げた直後に宗家乗っ取りを図った叔父の松平信定一派によって岡崎城を追放され、従者らと伊勢方面を放浪す…

私家版松平徳川実紀(連載第5回)

四 松平清康(1511年‐1535年) 松平清康は、家臣団の信頼がなかった父・信忠の早期隠居を受けて、幼少で家督を相続した。祖父・長親の後見があったとはいえ、彼は周囲の期待どおり早くから武将としての才覚を発揮し始める。まだ15歳の頃には、宗家…

私家版松平徳川実紀(連載第4回)

三 松平長親(1473年‐1544年) 松平長親〔ながちか〕は松平家の史実上の家祖・信光の孫に当たる。父は信光の子・親忠〔ちかただ〕だが、親忠は長寿を保った信光から家督を相続した時、すでに高齢であり、ほどなく息子の長親に家督を譲って隠居した。…

私家版松平徳川実紀(連載第3回)

二 松平信光(生没年不詳) 現在のところ、初期松平氏の当主として史料に名が見えるのは、家系図上3代目の松平信光からである。信光の父は系図上2代目泰親とされるが、初代親氏の子とする説もあり、父母も生没年も不詳である。親氏・泰親二代は造作の可能…

私家版松平徳川実紀(連載第2回)

一 松平親氏/泰親(伝承) 関東平野を縦貫する東武伊勢崎線に世良田〔せらだ〕という鄙びた小さな駅がある。今日は群馬県太田市に属するこの世良田が松平徳川氏の系図上の家祖・松平親氏〔ちかうじ〕の出た新田氏系世良田氏の本貫地であることから、松平徳…

私家版松平徳川実紀(連載第1回)

序 戦国大名は源氏系や藤原氏系を公称したがったが、明白に系譜関係をたどれる一部例外を除き、ほとんどの戦国大名は地方の国人領主や土豪の出自にすぎなかった。であればこそ、武力で下克上して階級上昇を果たす中で、家系の由緒来歴を飾るため、家系図を捏…