歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

2014-01-01から1年間の記事一覧

関東通史―中心⇔辺境(4)

五 東国の自立化 律令体制下の関東は、駅伝制のような古代的交通手段の発達により、それ以前に比べれば中央の統制が及ぶようになった。平安時代に入ると、関東八国のうち、常陸国、上総国、上野国の三国は親王任国となり、親王が遙任ながら国司に任命される…

関東通史―中心⇔辺境(3)

四 東国支配の完成 7世紀までに、関東は国造制を通じて畿内王権の支配に組み込まれたとはいえ、交通・通信網が決定的に不備な時代、その支配はなお脆弱であった。 状況が変わるのは、7世紀半ばの大化の改新以降のことである。この政変をきっかけに畿内王権…

関東通史―中心⇔辺境(2)

三 「東国」の征服 日本書紀では景行天皇紀の日本武尊の東征物語として関東への畿内王権の勢力拡張の様子が説話的に描かれているが、史実としての関東征服は6世紀から本格化するものと見られる。最大の征服目標は北関東の毛野国であった。 おそらく6世紀半…

関東通史―中心⇔辺境(1)

二 辺境関東の諸王国 弥生時代以後の関東は、農耕後進地として、縄文時代に保っていた中心地としての地位を当初は大陸に近い北九州を先進地とする西日本に譲ることとなった。 通説によると、3世紀から4世紀にかけて、畿内に大型墳丘墓を特徴とする強力な王…

関東通史―中心⇔辺境(序)

一 先史関東の変遷 関東地方は、周知のとおり首都東京を中核とする現代日本の政治経済の中心地として定着しているが、歴史的には中心と辺境の地位を幾度となく交替した末に、現在の地位にたどりついている。こうした関東の中心⇔辺境の交替は、歴史時代に入る…

抵抗の東北史(連載最終回)

十三 近代東北の忍耐 明治維新後の東北は、江戸幕藩体制から解放され、形の上では大日本帝国の近代的中央集権体制の中に組み込まれていき、もはや抵抗の地ではなくなった。 幕藩体制時代の東北諸藩は、当時の農業技術では十分な生産力が確保できない寒冷地で…

抵抗の東北史(連載第13回)

十二 東北最後の抵抗 江戸全盛期の東北は、他の地方と同様、幕藩体制の中で平穏が保たれ、もはや大きな抵抗の地ではなくなった。しかし、天明、天保と二つの大飢饉では多数の犠牲を出し、百姓一揆の頻度は高かった。 特に南部氏の盛岡藩は冷害が多い上に、最…

抵抗の東北史(連載第12回)

十一 近世東北の収斂 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、江戸時代に入ると、改めて幕府主導での東北再編が行なわれる。まず豊臣政権では冷遇され、減移封処分を受けて押さえ込まれていた伊達氏(政宗)は、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、徳川家康の評価を…

抵抗の東北史(連載第11回)

十 戦国時代の東北 南北朝統一後の室町幕府は東北支配を鎌倉府に委ねたが、鎌倉府が次第に自立化していく中で、東北支配も幕府と鎌倉府とに分裂し、東北支配は混乱していた。その結果、東北地方では早くから有力武将が半自立的に割拠する結果となり、他地域…

私家版松平徳川実紀(連載最終回)

二十七 徳川家達(1863年‐1940年) 通常の徳川史は最後の将軍15代慶喜をもって閉じられるが、明治維新後、華族(公爵)の身分を与えられて存続した近代徳川家の祖と言うべき人物として徳川家達〔いえさと〕を無視するのは正当でない。 家達が出た…

私家版松平徳川実紀(連載第23回)

二十六 徳川慶喜(1837年‐1913年) 徳川慶喜は本来は水戸徳川家の当主・徳川斉昭の七男として生まれたが、12代将軍家慶の命により一橋家の養嗣子となり、一橋家当主を継いだ。英明の評判の高かった慶喜は最終的に将軍に就任する以前、二度将軍候補…

私家版松平徳川実紀(連載第22回)

二十五 松平容保(1836年‐1893年) 松平容保〔かたもり〕は、元来尾張藩支藩の美濃高須藩主の六男として生まれたが、かつて2代将軍秀忠の庶子保科正之が興した会津松平家の養嗣子となり、会津藩主を継いだ。血統上は水戸徳川家から高須藩主家を養子…

抵抗の東北史(連載第10回)

九 中世東北の再編 蝦夷代官職として鎌倉時代に台頭し、津軽を拠点に土着した安藤氏は幕府滅亡後も南北朝動乱期を生き延びていくが、この頃から本来の拠点にある津軽にとどまった家系(下国家)と、日本海側秋田に移住した家系(上国家)とに分岐する。 この…

私家版松平徳川実紀(連載第21回)

二十三 徳川家茂(1846年‐1866年) 先代13代家定は病弱で実子もなかったため、存命中から後継者をめぐり派閥抗争が勃発していた。それは家定まで三代続けて将軍を出した一橋家の徳川慶喜を推す慶喜実父の水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派と、紀州藩主・…

抵抗の東北史(連載第9回)

八 中世東北の抵抗 奥州藤原氏が源氏によって滅ぼされ、東北も鎌倉幕府の支配下に入ると、この地方にも源氏配下の東国武士が地頭職に任ぜられて赴任してきた。特に幕府の実権が執権北条氏に掌握されてからは、北条氏所領が増加し、北条氏被官から有力者が現…

私家版松平徳川実紀(連載第20回)

二十二 徳川家慶(1793年‐1853年)/家定(1824年‐1858年) 家慶は11代将軍家斉の次男であったが、兄が夭折したため、将軍後継者となった。ただ、最初の4年は父の家斉が大御所として君臨したため、傀儡の状態であった。父が死去するや、…

抵抗の東北史(連載第8回)

七 新東北人の形成と抵抗(下) 奥州安倍氏の没落後、その支配を継承して東北随一の豪族となったのは出羽清原氏であった。清原氏は安倍氏のように徒に朝廷に反抗的となることは避け、むしろ朝廷に従いつつ、源氏のような武士団としての成長を目論んだ。 特に…

私家版松平徳川実紀(連載第19回)

二十 徳川治済(1751年‐1827年) 徳川治済〔はるさだ〕は、御三卿の一つである一橋家の家祖・徳川宗尹の四男であったが、二人の兄が相次いで福井藩主家の養子となり、福井藩主に転出したことから、一橋家の2代目当主となった。 趣味道楽の世界に遊…

私家版松平徳川実紀(連載第18回)

十九 松平定信(1759年‐1829年) 10代将軍家治死去から間を置かずに田沼意次が追放されると、入れ替わりの形で翌年、老中首座・将軍補佐として新たな幕政指導者となったのが、松平定信であった。 彼は当時、白河藩主であったが、元来は田安徳川家…

抵抗の東北史(連載第7回)

六 新東北人の形成と抵抗(上) 9世紀後半期の俘囚反乱が収束すると、一世紀以上、東北地方では平穏が保たれる。この間、平安朝による民族浄化政策の結果として入植和人と俘囚エミシの通婚・混血が進み、新しい東北人が形成されていった。こうした「新東北…

私家版松平徳川実紀(連載第17回)

十八 徳川家治(1737年‐1786年) 徳川家治は父の9代将軍家重が重度の障碍者であったのとは対照的に、幼少時から聡明とうたわれ、祖父の8代将軍吉宗の期待が高かった。吉宗が家重後継に固執したのは、孫の家治への期待からという説もあるほど祖父の…

抵抗の東北史(連載第6回)

五 民族浄化と俘囚の反乱 坂上田村麻呂が率いた平安朝によるエミシ掃討作戦が終了し、障害要因が除去されると、朝廷は東北入植政策を本格化させる。それは、強制移住と同化という二つの手段を通じて行われた。 強制移住は和人の代替的入植と引き換えに、エミ…

私家版松平徳川実紀(連載第16回)

十六 徳川宗武(1716年‐1771年) 徳川宗武は8代将軍吉宗の次男で、9代家重の異母弟に当たる。家重の項で述べたとおり、家重には重度の障碍があったことから、当初は宗武後継を主張する勢力も強かった。ことに吉宗時代の老中・松平乗邑〔のりさと〕…

私家版松平徳川実紀(連載第15回)

十五 徳川家重(1712年‐1761年) 徳川家重は、先代8代将軍吉宗の長男として生まれたが、おそらくは小児麻痺による障碍のために言語が不明瞭であった。そのため、健常者だった弟の宗武を後継に推す声が強く、後継者問題が発生した。この問題は長期政…

抵抗の東北史(連載第5回)

四 征服と抵抗(下) 多賀城築城の後、しばらくは朝廷軍とエミシ勢力の大規模な衝突は記録されていないが、朝廷による入植政策とそれに対するエミシの抵抗戦はなお断続的に続いていたものと見られる。 そうした中、780年に転機となる大規模なエミシの蜂起…

私家版松平徳川実紀(連載第14回)

十四 徳川吉宗(1684年‐1751年) 享保元年(1716年)に7代将軍徳川家継が夭折したことで、ついに2代将軍秀忠ラインの徳川宗家は断絶した。そのため、御三家の中で将軍位継承権を持つ尾張藩または紀州藩から後継者を出す時がきた。 当時政権の…

抵抗の東北史(連載第4回)

三 征服と抵抗(上) 百済滅亡後の畿内朝廷は、新羅と同盟していた敵方の唐の制度にならった律令制国家の建設に邁進していく。それが飛鳥時代最末期の大宝律令の制定で一段落すると、中断していた東北遠征が再開される。8世紀初頭、日本海側に出羽柵が設置…

私家版松平徳川実紀(連載第13回)

十三 徳川家宣(1662年‐1712年)/家継(1709年‐1716年) 徳川家宣は3代将軍家光の孫で、先代将軍綱吉の甥に当たるが、綱吉に男子継承者がなかったことから、甲府藩主だった家宣が後継者に決定した。元来後継候補としては、綱吉の長女が嫁…

抵抗の東北史(連載第3回)

二 共存の時代 古墳時代後期頃に成立した南部の和人古墳勢力と北部のエミシ勢力は、おおむね衣川(北上川水系)を境界線として共存均衡していたものと考えられるが、両者の交渉関係については史料が乏しく、詳細は不明である。 一方、7世紀までに関東を支配…

私家版松平徳川実紀(連載第12回)

十二 徳川綱吉(1646年‐1709年) 徳川綱吉は、3代将軍家光の四男で、当初は分家して館林藩主となるが、異母兄の先代将軍家綱に実子がなかったため、家綱の死の直前に養子となり、後継指名を受けた。 綱吉は5代将軍に就任するや、まず先代の側近者…