歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝

松平徳川女人列伝(連載第12回)

十八 広大院(1773年‐1844年) 8代将軍徳川吉宗の享保の改革は大奥にも及び、その職員数の削減はもとより、妻妾の数や大奥の隠然たる政治的影響力もそがれることになった。そのため、吉宗からその子・家重、孫の家治に至る三代の妻妾からは特筆すべ…

松平徳川女人列伝(連載第11回)

十七 浄円院(1655年‐1726年)/覚樹院(1697年‐1777年) 浄円院と覚樹院は、それぞれ8代将軍徳川吉宗の生母と側室として、吉宗とゆかりの深い女人である。特に浄円院は吉宗の生母として、徳川宗家から紀伊徳川家への実質的な「政権交代」…

松平徳川女人列伝(連載第10回)

十五 天英院(1666年‐1741年) 天英院(本名・近衛熙子[ひろこ])は関白・太政大臣の近衛基熙の娘として生まれ、延宝7年(1679年)6月、当時はまだ甲府藩主であった徳川家宣(旧名・綱豊)に嫁いだ。この婚姻について、父の基熙はひどく不服…

松平徳川女人列伝(連載第9回)

十三 順性院(1622年‐1683年) 3代将軍徳川家光の側室の中でも、順性院(お夏の方)はその出自が明確に町人身分と判明している点で、際立っている。町人身分ゆえに当初は家光正室の鷹司孝子付きの将軍御目見えが許されない下級女中(御末)からスタ…

松平徳川女人列伝(連載第8回)

十二 お楽の方(1621年‐1651年) 本名を蘭といったお楽の方は、3代将軍家光の側室として世継ぎとなる家綱(4代将軍)を産んだことで、幕府の存続を保証した重要人物となった。しかも、その生涯は二人の弟たちにも恩恵の及ぶ波乱含みの階級上昇に彩…

松平徳川女人列伝(連載第7回)

十一 鷹司孝子(1602年‐1674年) 鷹司孝子は3代将軍徳川家光の正室として、徳川将軍家に嫁いだ公家女性である。それ以前、初代家康、2代秀忠の正室はいずれも戦国武将家の子女から選ばれていたのに対し、三代目家光になって初めて公家から選ばれた…

松平徳川女人列伝(連載第6回)

九 千姫(1597年‐1666年) 正室が形式上の妻にすぎず、子を作らないこともあった歴代徳川将軍の中にあって、2代将軍秀忠と正室の江(崇源院)の間には、五女二男があった。そのうち、長子にして長女が千姫である。生年は豊臣時代の慶長二年だが、彼…

松平徳川女人列伝(連載第5回)

八 崇源院(1573年‐1626年) 江の名のほうが知られる崇源院は徳川2代将軍・秀忠の継室にして、3代将軍家光の生母でもある。出自は浅井氏だが、母を介して織田信長の姪にも当たる。徳川歴代将軍の正室として京都の公家・皇族息女を娶る慣習が確立す…

松平徳川女人列伝(連載第4回)

六 雲光院(1555年‐1637年)/英勝院(1578年‐1642年) 徳川家康の数多い側室の中には、子を産むよりも、奥向きの実務で手腕を見せた人もいる。その代表格は、雲光院である。阿茶局とも称されるが、同じく側室の茶阿局と紛らわしいため、出…

松平徳川女人列伝(連載第3回)

四 長勝院(1548年‐1620年)/西郷局(1552年?‐1589年) 一般的に、戦国・近世大名の側室は、家門の継承という大名家存続の条件を保証するために、正室の負担を補う目的から積極的に利用されていたが、とりわけ松平徳川家においては側室の…

松平徳川女人列伝(連載第2回)

二 築山殿(?‐1579年)/徳姫(1559年‐1636年) 松平徳川女人の中でも、とりわけ悲劇的な最期を遂げたのが、徳川家康の最初の正室だった築山殿である。本名も生年も不詳という戦国時代の女性にはありがちな情報不足であるが、父は今川一門の関…

松平徳川女人列伝(連載第1回)

序 日本の近世で最も持続的な成功を収めた一族と言えば、松平=徳川氏であろう。三河の山間の土豪から出たほぼ無名の一族が最終的に天下を治める最高執権者にのし上がるに当たっては、歴代当主の軍事的・政治的な手腕が寄与したことは間違いないが、一族が断…