歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧

私家版松平徳川実紀(連載第10回)

十 徳川家光(1604年‐1651年) 徳川家光は前将軍・秀忠の次男であったが、兄が夭折したため、事実上は長男格であった。家光の30年近い治世の最初の三分の一は父・秀忠が大御所として後見した。父が寛永九年(1632年)に死去して以降は、単独統…

私家版松平徳川実紀(連載第9回)

八 徳川頼宣(1602年‐1671年) 徳川家康の晩年に生まれた御三家家祖三兄弟の中でも、歴史結果的に最も重要なキーパーソンとなるのが、紀伊徳川家家祖・頼宣〔よりのぶ〕である。彼は家康の十男として生まれ、初め水戸に所領を与えられるが、駿府転封…

私家版松平徳川実紀(連載第8回)

七 徳川秀忠(1579年‐1632年) 徳川秀忠は家康の三男であったが、長兄・信康は秀忠が誕生した年に素行不良等の理由で父の命により切腹し、次兄の秀康(越前松平家家祖)は政略から豊臣氏、次いで結城氏の養子に出されたため、三男の秀忠に将軍位が転…

私家版松平徳川実紀(連載第7回)

六 徳川家康(1543年‐1616年) 今さら言うまでもない徳川宗家の創始者である。彼は先代松平広忠の唯一の男子として生まれたが、彼が生まれた時期の松平氏は歴史上最も苦境の中にあった。広忠の項でも述べたとおり、幼少の家康は今川氏の人質として移…

私家版松平徳川実紀(連載第6回)

五 松平広忠(1526年‐1549年) 松平徳川氏の全史を通じて、この人ほど薄幸の当主はいなかっただろう。広忠は父の清康が守山崩れで不慮の死を遂げた直後に宗家乗っ取りを図った叔父の松平信定一派によって岡崎城を追放され、従者らと伊勢方面を放浪す…

私家版松平徳川実紀(連載第5回)

四 松平清康(1511年‐1535年) 松平清康は、家臣団の信頼がなかった父・信忠の早期隠居を受けて、幼少で家督を相続した。祖父・長親の後見があったとはいえ、彼は周囲の期待どおり早くから武将としての才覚を発揮し始める。まだ15歳の頃には、宗家…