歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

〆土佐一条氏興亡物語

土佐一条氏興亡物語(連載最終回)

七 土佐一条氏の「消滅」と「再興」 土佐一条氏第五代の一条内政が死去した後の土佐一条氏の動向は、にわかに不明確になる。内政には継嗣として政親がおり、彼が第六代当主となったとする説が存在するが、その実在性を明確に証する同時代記録は存在していな…

土佐一条氏興亡物語(連載第6回)

六 戦国大名・土佐一条氏の盛衰(下):没落へ 土佐一条氏は、一条兼定の時代に長宗我部氏によって下剋上され、土佐の覇権を奪われる形で権勢を喪失したが、この時点で完全に滅亡したわけではなく、兼定の嫡子・内政[ただまさ]が長宗我部氏に擁立される形…

土佐一条氏興亡物語(連載第5回)

五 戦国大名・土佐一条氏の盛衰(中):傀儡化 土佐一条氏五代目兼定は父・房基の突然の自害により七歳で跡を継ぐが、20代半ばの頃までは比較的順調であった。彼は海を越えて豊後の大友氏の娘を継室として娶り、大友氏と同盟したほか、伊予への版図拡大を…

土佐一条氏興亡物語(連載第4回)

四 戦国大名土佐一条氏の盛衰(上):短い絶頂 土佐一条氏の初代は京都から下向してきた一条教房であるが、彼は終生公家として生きたのに対し、大名土佐一条氏の実質的な初代は教房の次男・房家である。房家は教房が土佐下向後に土佐で生まれた「土佐っ子」…

土佐一条氏興亡物語(連載第3回)

三 公家大名・土佐一条氏の誕生 土佐一条氏が、公家から大名に転化していったのは、土佐に疎開した一条教房が現地で晩年にもうけた次男房家の代以降である。彼は教房疎開中の土佐疎開中の文明七年(1475年)、父が50歳を過ぎてから、地元土豪の娘との…

土佐一条氏興亡物語(連載第2回)

二 中村小京都の建設 応仁の乱の際、京都の公家一条氏が土佐に疎開してきた経緯は初回に述べたが、一族の荘園であった幡多荘は古代には波多国造の支配地であり、古代以来、土佐の中心地として拓けていたと見られる。とはいえ、農村にすぎなかったこの地を小…

土佐一条氏興亡物語(連載第1回)

一 土佐一条氏前史 「小京都」と呼ばれる景観都市が全国に多数散在し、一定の条件を満たした全国の40を越える小京都で構成される「全国京都会議」という準公式団体すら存在する。同団体に加盟していない自称・他称の小京都まで含めれば小京都の数はもっと…