歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第7回)

三 北中国の混成


(1)北方文化の起源

 今日の中国は、周知のとおり、北方の北京を首都としており、北に心臓部を持つことで確定しているが、北方は本来、漢民族の拠点ではなかった。先史時代の北方文化としては、20世紀初頭に日本人考古学者・鳥居龍蔵によって発見された紅山文化が知られる。
 紅山文化は今日の河北省北部から内モンゴル自治区遼寧省にかけて分布する一連の先史文化であり、より南の黄河文明とも並行している。中でも、後に漢民族のシンボルともなる龍信仰を示す造形や風水の原型と見られる証拠物から、これらを中華文明の源泉とみなす説もある。
 紅山文化の担い手民族については不詳であり、北限の漢民族と見る説もあるが、この時期に漢民族がここまで北進していたと想定することには疑問もあり、非漢民族説も強い。より北辺は後に匈奴に代表される非漢民族系の騎馬遊牧民勢力の拠点となる地域だが、紅山文化人の生活様式は農耕であり、まだ遊牧形態が広まる以前の文化である。
 一方、紅山文化の発見を契機に、さらに東方の遼河流域に、より広範囲な文化圏の存在が明らかとなり、遼河文明と総称されるようになった。このようなくくり方をするなら、遼河文明圏は北方を含み込んだ東北系文明圏とも言える。
 おそらく、並行した黄河文明圏とは早くから何らかの交流が持たれており、相互の文化浸透が早くから進んでいたものと見られるが、遼河文明圏は前5000年頃から順次衰退を始め、最も後発のものでも紀元前500年頃には終焉しているので、比較的早くに滅んだようである。
 ちなみに遼河文明圏で出土した人骨の解析によると、フィンランド人なども含むウラル語族系の諸民族や言語的にはテュルク語系ながら遺伝子型ではウラル語族と共有するヤクート人と共通する遺伝子型が高率で見られたといういささか意外な結果が出ている。今日の中国領内にその末裔と見られる少数民族は存在しないことから、ウラル系遼河文明人は中国から姿を消したようである。
 かれらの行方と運命は明らかでないが、少なくとも遼河文明自体は、やがて人口増により北方にも拡散していった漢民族がこれを基層に取り込みつつ、我がものとし、独自の文明圏を構築していったものと考えられるのである。