歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

2014-08-01から1ヶ月間の記事一覧

私家版松平徳川実紀(連載第21回)

二十三 徳川家茂(1846年‐1866年) 先代13代家定は病弱で実子もなかったため、存命中から後継者をめぐり派閥抗争が勃発していた。それは家定まで三代続けて将軍を出した一橋家の徳川慶喜を推す慶喜実父の水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派と、紀州藩主・…

抵抗の東北史(連載第9回)

八 中世東北の抵抗 奥州藤原氏が源氏によって滅ぼされ、東北も鎌倉幕府の支配下に入ると、この地方にも源氏配下の東国武士が地頭職に任ぜられて赴任してきた。特に幕府の実権が執権北条氏に掌握されてからは、北条氏所領が増加し、北条氏被官から有力者が現…

私家版松平徳川実紀(連載第20回)

二十二 徳川家慶(1793年‐1853年)/家定(1824年‐1858年) 家慶は11代将軍家斉の次男であったが、兄が夭折したため、将軍後継者となった。ただ、最初の4年は父の家斉が大御所として君臨したため、傀儡の状態であった。父が死去するや、…

抵抗の東北史(連載第8回)

七 新東北人の形成と抵抗(下) 奥州安倍氏の没落後、その支配を継承して東北随一の豪族となったのは出羽清原氏であった。清原氏は安倍氏のように徒に朝廷に反抗的となることは避け、むしろ朝廷に従いつつ、源氏のような武士団としての成長を目論んだ。 特に…

私家版松平徳川実紀(連載第19回)

二十 徳川治済(1751年‐1827年) 徳川治済〔はるさだ〕は、御三卿の一つである一橋家の家祖・徳川宗尹の四男であったが、二人の兄が相次いで福井藩主家の養子となり、福井藩主に転出したことから、一橋家の2代目当主となった。 趣味道楽の世界に遊…

私家版松平徳川実紀(連載第18回)

十九 松平定信(1759年‐1829年) 10代将軍家治死去から間を置かずに田沼意次が追放されると、入れ替わりの形で翌年、老中首座・将軍補佐として新たな幕政指導者となったのが、松平定信であった。 彼は当時、白河藩主であったが、元来は田安徳川家…

抵抗の東北史(連載第7回)

六 新東北人の形成と抵抗(上) 9世紀後半期の俘囚反乱が収束すると、一世紀以上、東北地方では平穏が保たれる。この間、平安朝による民族浄化政策の結果として入植和人と俘囚エミシの通婚・混血が進み、新しい東北人が形成されていった。こうした「新東北…

私家版松平徳川実紀(連載第17回)

十八 徳川家治(1737年‐1786年) 徳川家治は父の9代将軍家重が重度の障碍者であったのとは対照的に、幼少時から聡明とうたわれ、祖父の8代将軍吉宗の期待が高かった。吉宗が家重後継に固執したのは、孫の家治への期待からという説もあるほど祖父の…

抵抗の東北史(連載第6回)

五 民族浄化と俘囚の反乱 坂上田村麻呂が率いた平安朝によるエミシ掃討作戦が終了し、障害要因が除去されると、朝廷は東北入植政策を本格化させる。それは、強制移住と同化という二つの手段を通じて行われた。 強制移住は和人の代替的入植と引き換えに、エミ…

私家版松平徳川実紀(連載第16回)

十六 徳川宗武(1716年‐1771年) 徳川宗武は8代将軍吉宗の次男で、9代家重の異母弟に当たる。家重の項で述べたとおり、家重には重度の障碍があったことから、当初は宗武後継を主張する勢力も強かった。ことに吉宗時代の老中・松平乗邑〔のりさと〕…

私家版松平徳川実紀(連載第15回)

十五 徳川家重(1712年‐1761年) 徳川家重は、先代8代将軍吉宗の長男として生まれたが、おそらくは小児麻痺による障碍のために言語が不明瞭であった。そのため、健常者だった弟の宗武を後継に推す声が強く、後継者問題が発生した。この問題は長期政…

抵抗の東北史(連載第5回)

四 征服と抵抗(下) 多賀城築城の後、しばらくは朝廷軍とエミシ勢力の大規模な衝突は記録されていないが、朝廷による入植政策とそれに対するエミシの抵抗戦はなお断続的に続いていたものと見られる。 そうした中、780年に転機となる大規模なエミシの蜂起…