歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

2015-01-01から1年間の記事一覧

日本語史異説―悲しき言語(連載第4回)

二 縄文語の生成と行方② 前回末尾で触れた比較言語学者・村山七郎は、日本語の基層を集中的に掘り下げる中で、日本語の基本的な語彙の基層にオーストロネシア語族との系譜関係を見出した。ただし、村山は「縄文語」の導出には慎重であるが、少なくとも日本語…

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(8)

[E:two] 独立アフガニスタン [E:night]1973年共和革命 1963年、ザーヒル・シャー国王は当時のアフガニスタンでは急進的すぎる近代化改革を推進していた従兄のダーウード首相を追放して、改めて親政を開始するが、それによって近代化路線が全面撤回さ…

私家版足利公方実紀(連載第9回)

十 足利持氏(1398年‐1439年) 足利持氏は、足利義持から義教にかけての時代に並立した第4代鎌倉公方である。先代鎌倉公方の父満兼の死去に伴い、12歳ほどで鎌倉公方となったため、当初は関東管領・上杉氏憲(禅秀)が実権を持った。 この時期の…

日本語史異説―悲しき言語(連載第3回)

二 縄文語の生成と行方① 日本語史を考える場合、前回も触れたように、旧石器時代の使用言語はおくとして、縄文時代に日本列島で使用されていた言語―縄文語―がとりあえずのスタート地点となる。とはいえ、縄文語に関しても、その概要を直接に知り得るような言…

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(7)

[E:two] 独立アフガニスタン [E:night]ザーヒル・シャー時代 1933年にモハンマド・ナーディル・シャーが暗殺された後を受けて、新国王に即位したザーヒル・シャーの40年に及んだ治世は大きく三期に分けることができる。 その第一期は、19歳での即位…

私家版足利公方実紀(連載第8回)

九 足利義教(1394年‐1441年)/義勝(1434年‐1443年) 足利義教は、甥の5代将軍義量が早世した後、兄の先代将軍義持に世子がなかったことから、義持の存命中の4人の弟の中からくじで選ばれるという前代未聞の経緯で6代将軍に就任した。…

日本語史異説―悲しき言語(連載第2回)

一 日本語と前日本語 本連載では、日本語の歴史を扱うが、ここで日本語とは、日本を国号とする国が成立して以降、日本国が事実上の公用語としてきた言語を指す。その意味で、ここでの「日本語」は政治的な意味合いを帯びた用語となる。 日本の国号が定まった…

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(6)

[E:two] 独立アフガニスタン [E:night]モハンマド・ナーディル・シャーの登場 1929年の反乱で、アマヌッラー国王を打倒して政権を掌握したのは、タジク族出身のハビーブッラー・カラカーニーであったが、アフガン軍の脱走兵出身と言われる彼は冒険主義者…

私家版足利公方実紀(連載第7回)

八 足利義持(1386年‐1428年)/義量(1407年‐1425年) 足利義持は3代将軍義満の子で、応永元年(1394年)に9歳で将軍位を譲られた。しかし、当然にも親政は無理で、義満が死去するまでは、父が大御所として実権を保持していた。従っ…

日本語史異説―悲しき言語(連載第1回)

筆者は、バイリンガルやそれ以上のマルチリンガルを尊ぶ近時の「グローバル化」風潮に反し、日本語を唯一の使用言語とするモノリンガルな人間である。それだけに、日本語の成り立ちについては、以前より関心を抱いてきた。 しかし、日本語の起源及び成立史は…

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(5)

[E:two] 独立アフガニスタン [E:night]アマヌッラー国王の「社会革命」 1919年、電撃クーデターで政権を掌握したアマヌッラー・ハーンがまず着手したのは、英国からの外交的自立であった。そこで、彼は5月、英国に対してジハードを宣言し、戦争を開始し…

私家版足利公方実紀(連載第6回)

六 足利氏満(1359年‐1398年) 2代鎌倉公方・足利氏満とその息子の3代・満兼父子は、3代将軍・義満とほぼ同時代的に並立した鎌倉公方であり、ともに義満から名前の偏諱を授かりながら、その生涯は父子ともども義満への反抗に彩られていた。 その…

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(4)

[E:one] 「保護国」アフガニスタン 第二次アングロ‐アフガン戦争後のアフガニスタンは、英国の保護国として再起することとなり、その最初の指導者が英国から王として認証されたアブドゥル・ラフマーン・ハーンであった。彼は敵対していた前首長の従兄弟であ…

私家版足利公方実紀(連載第5回)

五 足利義満(1358年‐1408年) 足利将軍中でも最も著名な3代将軍義満は、父・義詮の死去に伴い、11歳で将軍に就任した。このように年少での後継となったため、当初は管領・細川頼之が政治の実権を持った。細川氏は足利氏庶流から出た足利一門であ…

私家版足利公方実紀(連載第4回)

三 足利義詮(1330年‐1367年) 足利義詮〔よしあきら〕は、室町幕府を開いた尊氏の嫡男であるが、実際は、上に二人の異母兄がいた。しかし、どちらも庶子だったため、正室との間の長男であった義詮が嫡男となる。従って、父が幕府を建てた頃はまだ幼…

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(3)

零 曖昧な近代の開始 第一次アングロ‐アフガン戦争 バーラクザイ朝アフガニスタン首長国に対する英国の第一次戦争で前面に出てきたのは、当時英国のアジア侵略の先兵であった東インド会社軍であった。非正規の傭兵組織とはいえ、インド人のセポイを主力に強…

私家版足利公方実紀(連載第3回)

二 足利尊氏(1305年‐1358年) 足利尊氏は、先代貞氏の次男として鎌倉時代末期に生誕したが、本来足利氏の家督は貞氏の出家後いったんは異母兄の高義が継いでいた。しかし、高義は20歳ほどで夭折したため、貞氏が復帰していた。 以後、貞氏は存命…

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(2)

零 曖昧な近代の始まり バーラクザイ朝の成立 アフガニスタンに関して近代史を語る難しさは、いつから近代が始まるのかが曖昧なことである。いちおう、現代アフガニスタンにおいて最大勢力―とはいえ、その比率は50パーセント前後―であるイラン系民族パシュ…

私家版足利公方実紀(連載第2回)

一 足利貞氏(1273年‐1331年) 室町幕府を開いた足利氏は、清和源氏の流れを汲む源氏一門であり、河内源氏棟梁・源義家の四男・義国が下野国足利荘を拝領したことで、その次男・義康以降、足利氏を名乗るようになった。このように足利氏は源氏一門と…

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(1)

序説 「テロの世紀」となってしまった21世紀は9・11テロ事件への報復としてアメリカ主導で断行された対アフガニスタン戦争で幕を開けた。同戦争が一段落して十数年を経て、火種はより西の中東へ遷移したため、アフガニスタンへの世界の注目は失われたか…

私家版足利公方実紀(連載第1回)

序 14世紀から16世紀後半にかけて、周知のように、日本では京都に武家政権機構である幕府と天皇の朝廷とが並立するという独異な時代―いわゆる室町時代―を経験した。言わば軍事政権と宮廷が並存したわけで、しかも幕府も基本的に世襲制であったから、一種…

イエメン―忘れられた近代史(10)

後記 サレハ政権崩壊後に勃発したイエメン新内戦はまだ歴史でなく、現在進行中の事象であるので、後記として言及するにとどめざるを得ない。こたびの内戦は南北間の内戦ではなく、サレハ政権を継いだハーディ政権とザイド派武装勢力フーシ派との間のものであ…

イエメン―忘れられた近代史(9)

八 「アラブの春」から内戦へ 1994年の南北内戦に勝利し、統一イエメンの支配者としての地位を確実にしたサレハ大統領は、1999年大統領選挙で三選を果たした。事前の工作により、この選挙での候補者はサレハ一人だけの出来レースであった。 調子づい…

イエメン―忘れられた近代史(8)

七 統一後の混乱 想定以上にスムーズに実現したイエメン統一であったが、それは滑り出しからつまずく。まずは、統一プロセス渦中で発生した湾岸戦争で、サレハ政権がクウェートを侵攻・占領したイラクを支持するという誤った選択をしたことである。 このよう…

イエメン―忘れられた近代史(7)

六 イエメン統一まで 両イエメンは、ほぼ同一・同種民族間のイデオロギー的分断国家という点では、同じ冷戦期に現出した東西ドイツや南北朝鮮と類似していたが、それらに比べれば、ともに社会主義的志向性を持つ両イエメンのイデオロギー対立の溝はさほど深…

イエメン―忘れられた近代史(6)

五 両イエメンの歩み〈2〉 両イエメンでは、1978年に同時発生したそれぞれの政変を経て、新体制が発足する。北ではサレハ独裁政権、南ではイエメン社会主義者党(YSP)独裁政権である。 北で新政権を樹立したサレハは一兵士として北イエメン軍に入隊し…

イエメン―忘れられた近代史(5)

四 両イエメンの歩み〈1〉 両イエメンは、ともに1970年に転機を迎えた。この年、北イエメンでは62年共和革命以来の王党派との内戦が正式に終結し、改めて共和国として再出発した。一方、南イエメンでは前年の英国からの独立を経て、民族解放戦線内の…

イエメン―忘れられた近代史(4)

三 南イエメンの独立 南イエメンは、北イエメン独立後も、アデン植民地と周辺の保護領から成る英国支配下にあった。56年のスエズ動乱で英国がスエズ運河権益を喪失すると、南イエメンの中心港湾都市アデンは石油精製の拠点として重視されるようになる。 そ…

イエメン―忘れられた近代史(3)

二 共和革命から内戦へ イエメン王国のアラブ国家連合への加盟は、軍部を中心にナセルに傾倒するアラブ民族主義者を勢いづかせ、前近代的な王制打倒への動きに弾みをつけた。その点で、連合への加盟はザイド派王朝にとって自らの命脈を縮める選択であった。 …

イエメン―忘れられた近代史(2)

一 北イエメンの独立 イエメンの近代史は、他の多くの中東諸国と同様、オスマン・トルコの支配を抜け出した時点に始まる。イエメンの場合は、1918年である。時のザイド派イマーム、ヤフヤ・ムハンマド・ハミド・エッディンはすでに13年のオスマン帝国…