2018-01-01から1ヶ月間の記事一覧
四 通蔵主/金蔵主(?‐1443年) 禁闕の変で真の首謀者と推定される鳥羽尊秀こと小倉宮教尊に代わって南朝勢力のシンボルとして前面に押し上げられたのが、通蔵主と金蔵主の兄弟僧侶である。兄弟の系譜については同時代的にも小倉宮流とする説と護聖院宮…
四 神道の軍事化 熊野別当と武家政権 前章末尾で見たように、平安時代末の院政期になると、熊野三山が院の庇護を受けて政治的にも伸張したのであるが、熊野別当家は同時に軍事力も獲得するようになる。特に熊野水軍である。熊野水軍は紀伊半島南東部の熊野灘…
三 小倉宮教尊(1419年‐1443年) 南朝後統の中では珍しく生没年がおよそ判明している人物であるが、父の聖承とともに法名しか判明していない。彼についてわかっていることは北朝系嫡流の断絶に際してその後継として父が教尊を推していたこと、しかし…
二 小倉宮聖承(?‐1443年) 小倉宮聖承は小倉宮恒敦の長子と思われる子息である。聖承は法名で、俗名は記録されていない。しかし、その事績については父よりも多くのことが判明している。というのも、「皇位の回復のため最も派手に動き回ったのは、この…
一 小倉宮恒敦(?‐1422年) 小倉宮恒敦は「南朝後統」・小倉宮家の創始者と目される人物であるが、その影は限りなく薄い。わかっているのは、彼が南朝最後の後亀山天皇の皇子であったこと、嵯峨小倉山下に居住していたこと、1422年(応永二十九年)…
序 「南朝後統」とは、南北朝が統一された後もしばらく存続した旧南朝家系の中でも正嫡とみなされる系統を指す。「皇統」と表記しないのは、旧南朝はもはや皇家ではなくなるからである。「南朝後統」はあくまでも筆者の造語であり、学術用語ではない。 こう…
*当ブログは、日頃あまり顧みられることのない歴史的テーマにまつわる管理人(筆者)の連載記事を専用に掲載するブログです。 *遅筆のため、一つのテーマ(タイトル)で集中連載することができず、複数の連載を同時並行し、完成した草稿からアップしていき…